翁長 高安 亀平(南部避難)_1_全文

ID1170181
作者高安 亀平
作者備考出身地「翁長」、1929年(昭和4年)生、当時15歳
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)翁長_高安 亀平_「15歳の高安亀平さん。愛馬を日本軍に引き渡した苦い思い出。山原疎開したものの食料をとりに戻ったため激戦地の南部へ追い込まれます。」_1_全文
キーワード南部避難、10.10空襲(十・十空襲)、伊良波収容所
総体1語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶_映像資料
総体2
総体3
出典1語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc2、YouTube @TGDA_okinawa
出典1リンクhttps://youtu.be/01zH7c67DkA?feature=shared
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
翁長
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)1940年代
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)昭和10年代~昭和20年代
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010604文化行政
収納分類4語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶
資料内容戦前の翁長
翁長は畳表の産地だったんですから
畳表の販売とかイグサの販売なんかやっていたんです

小学校の頃
私は昭和11年に当時の豊見城第二尋常小学校に入学したんですよ
翁長から当時の小学校に通うのに、裸足でですね
それで雨降りの場合なんかは傘はないんですから
麻袋を三角に折ってそれをかぶって通学したんですよ
当時は米のご飯がないんですから
ふかしイモを1つか2つ持って
学校で昼食は食べよったんですよ
学校から帰ってきたら家畜の世話、草刈りしたり
製糖期には、キビ刈りの手伝いしたりなんかして
いつも農業の手伝いだったんです

日本軍駐屯
昭和19年の3月に、私は
当時は国民学校なっておりますから
豊見城第二国民学校を卒業したんです
それからしばらくは農業を手伝っていましたが
私の家に満州から7月ですが武(たけ)部隊が
翁長集落に駐屯してきたんですよ
兵舎も陣地もないので民間の家に宿舎を借りて
私の家の離れは、2階だったんですが
そこに1個小隊、駐屯したんですよ

ジョン万次郎と日本将校
(昭和)19年、武部隊が家の離れに駐屯している時に
日本軍の将校の方が、中尉か大尉かははっきりは
覚えてないんですが、
馬に乗って、家に見えられたんです
それで、父は一番座にこの方をご案内して
その将校がうちの父に
「中濱万次郎の本を見せてくれ」と
本を渡したら、約2時間ぐらい、この本を見ていた
父への質問は「中濱万次郎はなぜ(糸満の)小渡浜(現・大渡浜)から上陸したのか」
確か、万次郎さんは、アメリカから帰り
アメリカ船で小渡浜(現・大渡浜)から上陸しているから
日本の軍隊も、(米軍上陸地として)考えたのかな、と
うちの父も、わかるはずもないですから
「わからない」ということで

荷馬車 土運び
当時の大嶺飛行場、今は那覇空港ですが、そこの
掩体(えんたい)壕を作る工事に私は従事したんです
当時、荷馬車だったので
この荷馬車で土運びなんかやったんですよ

荷馬車 松の木運搬
陣地を作るのに、壕を掘るのにも枠がいるので
東風平の八重瀬岳から松(の木)を運搬したんです
だいたい馬車1台に4本積んで
1日に2回歩き(運び)ました

10.10空襲(十・十空襲)
10.10空襲(十・十空襲)は、ちょうど武部隊が家に駐屯している時です
私はまだ起きてなかったんですよ
朝起きたら、兵隊達が2階の屋上に登って、那覇の港
小禄の飛行場に爆撃するのを見て
「今頃こんな演習はないんだがな」と不思議がって
翁長は10.10空襲(十・十空襲)は被害ひとつもないし
弾ひとつもなかったんですよ
ここがちょうど丘(タカメーハル)だったので、私たちは
糸満漁港に、漁船に爆撃するのを見物しました

与根飛行場建設
(昭和)20年の初めに
今の糸満街道の
翁長と伊良波間で、緊急に、滑走路の工事が始まったんですよ
私も糸満入り口の海端に岩がいくつかあったので
その岩を砕いた石を滑走路に運んだ仕事もしたんです

軍物資の運搬
翁長には(昭和)20年になって
球(たま)部隊の大隊本部が来ましたから
私は大隊本部の糧秣、食糧とか物資を大里村の平川
それから南風原村の神里、東風平村の屋宜原
その中隊に物資を運んだことがあります

馬車馬の徴発
馬車馬というのは体格がいい馬ですから
小学校の運動場に馬を持ってくるように通達があったんです
父が東風平(村)志多伯から
知り合いの小さい馬を借りてきて
私がこれを運動場に持っていったら
兵隊が後ろから全部馬を見て
「これは合格」「これは不合格」とつけていました
私たちは免れて家に帰ったら、2・3日して
翁長は隠し馬がいるから
また運動場に持ってきなさいということを通達
その時は本当の馬を持って行ったら徴発されて
(当時の)700円だったと記憶しています
それからまたこの小さい馬を買ってきて
これで、また馬車を運搬していたんですよ

山原疎開
昭和20年3月23日に父の知り合いの兵隊が
「おじさん、これだけ機動部隊が見えては、(米軍)上陸は間近だから」
「国頭に避難したほうがいいんじゃないですか」と助言があって
3月24日に、何も持たないで、父と姉2人と私と
国頭(郡)に避難に行ったんですよ
豊見城の指定の避難所、(大宜味)謝名城に行ったんです
謝名城の避難所へ行ったら、避難小屋がちゃんと作ってあって
大勢の方がいたんです
だいぶ避難民がいて
食料も配給が少なかったんですよ
こういった所で生活はできないから
「馬車で(家に)食糧を取ってきましょう」ということで
父に言って「じゃそうしよう」と
また2人(翁長の)家に戻って、食料を取りに来たんですが

翁長へ引き返す
名護の七曲りに来たらもう人が見えないんですよ
心細くなってもう引き返そうかどうしよかという
親子で迷ったんですが
姉たちがあんなにひもじい思いして待っているから
どうしても行こうということで、仲泊まで来たら
日本兵が立って、南に通さなかったんです
仕方なく遠回りで石川までのぼって
石川から美里、具志川と
宜野湾の普天間辺りに、あまりにも空襲が激しくて
父と2人で壕に隠れている時に
米軍の上陸の話が出ていたので
(北側)は危ないと思って(山原へは行けなくなった)
空襲のさなか
そこから逃げるように出て家に帰ったんです
翁長に着いたら、もう夜中なっていたんです
今みたいに電話で連絡もできないし
私たちも非常に姉たちを心配していたんですが
姉たちも途中で何かなかったかなと心配だったらしいんですよ

南部へ避難
(家に)母と次男おじさんとおばあさんがいました
避難はしないで家にいたんです
話を聞いてみたら役場からの通達で
翁長は、中軍道、今の7号線ですが、(糸満の)武富
向こうから上のほうに避難するようにと通達があって
夜は向こうに避難して
昼はまた家畜の世話があるので、皆、帰ってきて
そういった状態だったというんですよ
6月の初めに、母屋は、茅葺で2棟だったが
これを焼夷弾で焼かれて、離れの2階は残っていたんです
敵はもうここまで来ているし
隣りの保栄茂まで米軍が来て、翁長に弾が飛んで来たんですよ
私たちは大通りから歩かないで
阿波根のイリバル(西原)という所
そこの畑道を通って今度は糸満街道に出て
南に避難したら
米軍のグラマンは上空から飛ぶんですが
機関銃1つもしないんですよ
あの時、機銃でもしたら
ほとんどの方が犠牲になったと思うんですよ

喜屋武へ
糸満の入口へ行ったら橋が落とされて
上流に行ったらようやく浅瀬がありましたから
そこを渡って
それから名城、小波蔵を通って、喜屋武に着いたんですよ
喜屋武では
もう話もできないほど、悲惨だったんですよ
私たちは隠れる所もないし
人の家畜小屋に寝泊りして
喜屋武の井戸が、高台に
海の見える所にあるんです
夕方そこに水汲みに行ったら
喜屋武の井戸の周辺の悲惨なこと、今、話にできない
そういったことがあって、もう食料もないし
どうせ死ぬんだった、家には、食料もあるし
防空壕もあるから、家に帰ろうということで
喜屋武を出て、夕方、近くの福地という集落にきたんです
石垣の下、大きな木の下に、隠れていたんです
朝、米軍が戦車で、福地に侵攻してきたんですよ
昼前になって、隣りに隠れていた方が
「もう捕虜になったから出なさい」ということで
そして私たちも家族で、捕虜というのか
保護というのか、(米軍に)捕まったんですよ
あの時は神経が確かでは、なかったと思うんです
今、その話を、私はできないんですが
(死体を)上から踏んで歩くし、また越えても歩くし
本当に悲惨で見られたもんじゃなかったです、喜屋武のほうは
小波蔵で、これは捕虜になって、見たんですが
家が焼かれて、丸焼けされた方々も、だいぶ見ましたし
もう当時は神経が麻痺していたと思うんです

捕虜になる
福地で捕虜になってみんな広場に集められたんです
どこ行くともなく米軍に促されて歩いたんです
伊良波集落の収容所に連れて行かれたんです。
大勢の方がそこに収容されて
おにぎり1つずつ貰ったんです

島袋収容所
翌日はトラックに乗せられて
中城村の島袋という所に連れられて行ったんです
向こうで、1週間から10日ぐらい滞在しましたが
今度、また軍のトラックに乗せられて

金武 福山収容所
(当時)金武(村)の福山に、開墾地ですが
 そこに連れられて行って
長い茅葺き家が作ってありました。
そこで私たちは避難生活をしたんです。
福山では1週間に1回ぐらいだったんですが
米の配給があったんですよ
そして缶詰の配給があるし
私たちが福山にいる時に
豊見城の山原に避難した方々は
久志村の三原にいると
父が聞いて(姉達を)連れに行ったんです
福山に姉達も来て、そこで一緒に生活していたんです
うちの母が非常に泣いて喜んでいたんですよ
戦争で、おばあさんが収容所で亡くなりました
そしておじさん2人とおばさん2人が福地で
それからうちの兄が防衛隊だったんですよ
兄はどこで亡くなったか分らないです

豊見城へ帰村
たしか12月25日
クリスマスの日だったと思うんです
豊見城は(地元に)帰られるということで
軍のトラックに乗って私たちは
伊良波の集落の収容所に
そこに着くと、そこは先発隊がきて
テントなど準備してあったんです
ようやく自分の村だから落ち着いて、生活したんです

故郷 翁長へ
翁長は、確か2月の終わりか3月の初め頃、開放なって
伊良波収容所から来たんですよ
屋敷にテント張って、テント生活している時に
米軍から2×4(ツーバイフォー)住宅をつくる資材の配給があって
だいたい翁長は30棟ぐらいだったと思うんですが
みんなで協力しあって、2×4(ツーバイフォー)の規格ヤー
大体6坪ぐらいだったと思うんですが
これを作って、1棟に2、3家族ぐらい入って生活していたんです

軍作業
軍作業は、ちょうど(昭和)21年に
知り合いが、テニアン帰りで
軍桟橋でフォークリフトのドライバーしていたんですよ
彼に言ったら「私が働かすから来なさい」ということで
テニアンでフォークドライバーしていたと
嘘をついて採用してもらって、約1年くらい
私は元々農家。兄も亡くなって男は私一人だから
また農地もあるからということで親たちが
「もうあんたは農業やりなさい」ということで
あれからずっと今まで農業です

次世代へ
私はちょうど16歳でした。食べ物も不自由だし
また敵の砲弾がいつ自分に飛んでくるかわからないし
防空壕のじめじめしたところ
ここに何十日間も生活しています
あの生活が一番辛かったです
だから子や孫に伝えたいことは
戦争は二度とあってはいけないから
皆で協力しあって
いつまでも今の平和な暮らしをしなさいということ
それを伝えたいです

収録日:2017年(平成29年)11月10日

PageTop