翁長 大城 盛昌(防衛隊)_1_全文

ID1170171
作者大城 盛昌
作者備考出身地「翁長」、1927年(昭和2年)生、当時17歳
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目軍人・軍属
細項目防衛隊
資料名(別名)翁長_大城 盛昌_「17歳の大城盛昌さん。イ草栽培、筵づくりが盛んだった翁長で生まれ育ちます。防衛隊に召集され、軍隊とともに激戦の南部へ。死を覚悟した摩文仁海岸で米軍に投降したそのわけとは…」_1_全文
キーワード南部従軍(防衛隊)、徴兵検査
総体1語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶_映像資料
総体2
総体3
出典1語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc2、YouTube @TGDA_okinawa
出典1リンクhttps://youtu.be/Vs_Y6MH1Vug?feature=shared
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
翁長
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)1940年代
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)昭和10年代~昭和20年代
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010604文化行政
収納分類4語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶
資料内容戦前の翁長
戦前は 静かな農村 集落でした

サトウキビ
農業はサトウキビが主なる産業でした
8か所くらいありました
黒糖を作る工場がサーターヤーがありました

イグサ 製筵
イグサ栽培です。畳表、製筵(ムシロ作り)、盛んなところでした
前の公民館に共同作業所がありました
ムシロ織り機 全部集めて女の方が織っていました

家族
(家族は)兄弟5名に 両親におばあ 8名です

手伝い
子どもの頃は仕事はないから 学校終わったら、ヤギの(えさの)草刈りとか
馬の(えさの)草刈りは 受け持たされました

集落の日本軍
あの頃は 「兵隊さん 兵隊さん」で
集落の大きな家は何軒か泊まっていました。

軍事教育
学校に朝行く場合にも 帰る場合にも、みんな 御真影(ごしんえい)礼拝です
儀式(学校行事)の場合,校長先生が 教育勅語を朗読されてました

青年学校
小学校を卒業して 青年学校に入りました
軍事教練が主でした
あの頃は軍国主義教育で日本は「神の国」だから
絶対負けないという徹底した教育をしていました
青年学校でも夜も公民館で、青年の集会がありまして
時局(社会の情勢)講演会ってありました

雑誌『青年』
雑誌『青年』という 月刊誌がありまして
皆配給して読まされました
そうですね 今覚えているのは
「見ヨ刻一刻 凄捷苛烈ナル 空ノ決戦 我ラ若キモノ立ツベキ時ハ今」 と
これ覚えてます
よく夜、公民館で、担当の先生が読ませました
みんなで合唱です

防衛隊入隊
防衛隊は昭和20年2月15日です
我々が入隊したのは
前の日の14日、夕方、 召集令状が来ました
「明日の8時までに竹槍を持って」
「東風平の記念運動場に集合しなさい」
すぐ召集令状がきていた
郵便ではなかった
通知の色は白だった
昭和20年2月15日の午前8時に
東風平の記念運動場に集合しました
あれから軍のトラックに乗せられて
今の警察本部のあたり
武徳殿があったので 休憩しました
どこに連れていくのかと思ったら
(那覇)安里の第一高等女学校で
向こうが部隊の本部でした

隊長当番
私は入隊して、2週間ぐらいで
指揮班に指名されました。 隊長当番です
仰せつかりまして
隊長の飯を作ったり 洗濯したり

南部へ撤退
3月23日頃から空襲が激しくなりました
敵が上陸するということで
南風原村神里の壕に移り、 向こうでずっと。南部に撤退するまで
記録では28日頃、 南風原村神里の壕から糸満の米須の壕に移りました
(死体は)あちこち転がってました
体が膨れて真っ黒くなってました。死体が
今考えてみたら米須の自然壕からずっと旧・摩文仁村にある
小渡浜(現・大渡浜) まで、走って逃げました
夜 曳光弾(えいこうだん)がピピピっときて
生きた心地はなかったです

自決を考える
最後に捕虜になったのは、摩文仁の海岸でした
向こうの岸壁の上で
少尉1人に。上等兵1人 兵長1人
私たち沖縄の防衛隊が3名でした
一緒の壕でした
こっちからもう動けないから自決しようという話になった
食べ物も 缶詰をみんな開けて
みんな食べようと ウトウトしている時に
井上上等兵、炊事の担当
上等兵が ふと 我々に
「君たちはまだ年も若いし 軍隊ではないし」
「また沖縄の出身だから捕虜になっても」
「国際条約で捕虜は殺さないことになっているから」
「生き延びて捕虜になって」
「苦しければいつでも死ねる機会があるから」
「捕虜になりなさい」と追い出されまして
「いや 一緒に死なせてくれ」といいました
「いや 君たちは生きておれば、いつかは親兄弟」
「肉親とも会う機会あるから」
「しばらく我慢して 捕虜になりなさい」
上等兵でした 炊事の担当。とても厳しい人でした
いざとなったらとっても人情のある人でした
この人がいなければ一緒に自決したんじゃないですか

捕虜
崖を上がったら、アメリカ(兵)が銃構えて
呼んでいました 危機一髪でした
たくさんの人(捕虜が)がいて びっくりしました
みんな我々だけと思ってた
今の摩文仁の平和公園あたりでしょう

中部へ移送
みんながたくさん下りて連れていかれて
トラックに乗って
屋良飛行場といって滑走路ぐらいの
小さい飛行場でしたけど 向こうのそば
(読谷の)渡具知海岸で
米軍が上陸したところ 向こうに連れていかれて
翌日は、金武の屋嘉収容所
屋嘉収容所に連れていかれました
向こうで2・3日して
トラックに乗せられ

ハワイへ移送
「これはどっかの無人島に島流しされるな」と思ったら
上陸用舟艇に乗せられて 沖の
軍用船に乗って1週間ぐらいかかって
ハワイですよ ハワイに移送された
軍用船ですから、何段かの寝台です
どこに連れて行かれるかということで
あきらめ的な気分がありました

ハワイ収容所
ハワイにその時、2・300人ぐらい、いたんじゃないですか
私は当時の捕虜番号も覚えてます
「6356」その番号
(私で)「6356」ですから (捕虜が)まだ たくさんいたんですよ
ハワイで仕事はないです
組み立て資材テント6名ぐらいです
1部屋に入れられて
ハワイでは割りと待遇は良かったです
大きな炊事場があってご馳走があった

沖縄へ
8月15日 日本が降伏してから帰国しました
(金武)ギンバルに船艇は着きました
船艇に乗って 屋嘉収容所に入りました

屋嘉収容所
やはり懐かしかったです
皆食べるのは戦時食です 軍のKレーション・携帯食糧
またCレーションといって缶詰のジャガイモ・コンビーフです
それがありました 食事は
仕事はないから いろいろユンタクしました

屋嘉収容所 娯楽
屋嘉収容所に
「成都劇場」といって 劇場がありました
芝居の役者も たくさんおりました
映画館がありました

屋嘉収容所 カンカラ三線
カンカラ三線はハワイでもやりました
帰ってから また カンカラ三線でしょう
カンカラー(缶空)の
骨はまた 寝台の 横棒です。
チル(弦)は、電気線です

屋嘉収容所 家族と再会
家族の(身元が)わかりしだい、徐々に解放されて
出ていきました みんな待ちかねていました
家族は 金武のギンバルという所にいました
ギンバル
屋嘉収容所から近い所です
(家族と会えて)もうなんともいえません
小さなカバ(テント)でつくった家でしたが本当に(うれしかった)
向こうでしばらくして、12月頃
出身市町村に帰っていきました

豊見城へ帰村
豊見城は今の座安小学校に役所もありましたから 本部が
渡橋名の畑 あの辺りは全部テントで

翁長へ帰る
あれからだんだん
規格ハウスといって2×4(ツーバイフォー)で
作業隊がつくり これが出来しだいに
翁長に帰されたんです
焼け野原だった。残った家はなかった。 翁長は
私は軍作業に行かずにやっていた

配給物資
字の書記に指名されて
今の座安小学校に 配給所の倉庫がありました
1週間にいっぺんです 配給物資は
総動員して担ぎに行った覚えがあります 配給物資
缶詰とかいろいろ トウモロコシとか
お米はたまにしかなかったが
あれからみんな畑を耕して イモを植えて

綱引き復活
集落に引き上げ、翌年あたりから綱引きが
最初は藁がないから 草で作った記憶があります
マカヤー(茅)といいます。 ウチナー口では
長い草がありました
マカヤーで作った。 藁がない時代は

家族
(戦争で亡くなった家族は)いません。 みんな元気で再会できました。

戦死した同級生
私は大正15年生まれと(学年は)一緒です。 七つ上がり(早生まれ)で
同級生は
12・3名いましたが みんな戦死しました
一斉に徴兵検査されて 行きました
同級生はみんないません 大正15年生は

次世代へ
今はどこの集まりとか
話題にも 戦争のことはあまり出なくなりました
出なくなりましたよ
今の若者には わからないはず
(沖縄戦を)どう伝えるかが 問題でしょう
若者に沖縄戦のことを
だんだん風化しているといわれてます
「平和以外にいいことないよ」と伝えたい

収録日:2017年(平成29年)11月10日

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