渡嘉敷 大嶺 文子(南部避難)_1_全文
| ID | 1170161 |
|---|---|
| 作者 | 大嶺 文子 |
| 作者備考 | 出身地「渡嘉敷」、1934年(昭和9年)生、当時10歳(小学校4年) |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 南部避難 |
| 資料名(別名) | 渡嘉敷_大嶺 文子_「10歳の大嶺文子さん。一度は試みた本土疎開、山原疎開を断念。米軍が迫る中で、家族親戚と南部に避難します。壮絶な戦場を生き抜いて戻ると、そこに、やさしい兄は…」_1_全文 |
| キーワード | 南部避難、10.10空襲(十・十空襲)、学童疎開、山原疎開 |
| 総体1 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶_映像資料 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc2、YouTube @TGDA_okinawa |
| 出典1リンク | https://youtu.be/9ZkcsfImrWA?feature=shared |
| 出典2 | |
| 出典2リンク | |
| 出典3 | |
| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 渡嘉敷 |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
| 年月日(始) | |
| 年月日(終) | |
| 年代(西暦) | 1940年代 |
| 年月日(和暦)(終) | |
| 年月日(和暦)(始) | |
| 年代(和暦) | 昭和10年代~昭和20年代 |
| 始期(年・西暦) | |
| 始期(年・和暦) | |
| 始期(月) | |
| 始期(日) | |
| 終期(年・西暦) | |
| 終期(年・和暦) | |
| 終期(月) | |
| 終期(日) | |
| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010604文化行政 |
| 収納分類4 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶 |
| 資料内容 | 豊見城第二国民学校 豊見城の(小学校は)当時は2つに、第一国民学校と第二国民学校にわかれていた 区域でわかれているから、渡嘉敷は、第二国民学校です イ、ロ、ハ、3組かな 「修身」の授業 4年生の時に修身の本ってあったんです、教育勅語を丸暗記させられて 今でも少しわかりますけど、立って一人一人、本も見せないで読ませた こんな教育でした 軍事訓練 竹ヤリ訓練は小さかったせいか、なかった 今から考えると4・5メートルぐらい、長さが 幅が2・3メートルで、ここに丸太棒を2本かけて 下は水なんです、水がたまって、その上を、逃げる訓練をさせられた この訓練しかなかった 10.10空襲(十・十空襲) 10月10日の空襲は、みんな、そこ(家の防空壕)に入って 兄は見に行った、高いところに、二中の兄は次男ですけど 那覇の空襲を見てきて 姉と私はこの壕(家の防空壕)じゃ、やられるからといって 道路に二人、一目散に横穴(の壕)に逃げたんです これが本当の爆撃だと思いました 爆撃は見てないけど(飛行機が低空で)飛んできた時 地面が真黒くなったんです、飛行機の爆音がすごいんです 3機か4機編隊で、黒い飛行機、見たことのない飛行機 低空で、那覇をめがけて機銃でパラパラパラやるんですよ 音は聞いたんです、やるのはもう音だけ 10月10日の空襲から、あれからは 横穴の防空壕 (爆撃は)あると覚悟して、壕を強く掘ったりして 正面だけだと、爆撃でやられるから 穴を横にも掘ってそこに入っていた 姉の学童疎開 姉は私より1つ上だけど、早生まれで2期上だった 姉は学童疎開の最初の時に自分から希望して 昭和19年ごろ、宮崎に行ったんです 私は、遅かったんです 本土疎開 長女姉さんの旦那が、熊本で、陸軍士官学校の教官をしていたんです 自分の妻子を呼ぶといって、姉は子どもと二人じゃ寂しいから 怖いから一緒に行ってくれというので「うん、行くよ」と言って 3名、荷物の準備して行ったんです、那覇の桟橋に 船に荷物は全部乗せたんです 乗船する時に、空襲警報が鳴ったから 那覇の親戚の家に、隠れた後で、家に帰ったけど、それから空襲が始まって(いけなくなった) 山原疎開 南部に移動する前、壕にいる時、隣の壕とは窓みたいにいつでも会話できるよう開いていたんです 山原に疎開しなさいという通達があって 隣の壕の人は、早く行ったんです 夜、歩いて行って、徒歩で行って 高台の一軒家に入ったんです そこに入って一夜を明かして、明け方那覇の港を、海を見たら 海面、真黒く、軍艦がつまって、浮いているんです それを見て父と叔父はびっくりして これじゃ山原まで行けないと それから南部に歩き出したんです 南部避難 叔父の家族は、奥さんの親戚が2・3名入っていたんです 合計で20名近かった、私たちと向こうで、いつも行動は一緒です 入る壕は、(全員が)入らない場所ばかりだから、別々です 渡嘉敷から、叔父の家族と一緒に避難する時に、白銀堂の近くに (糸満)兼城から来る大きい川、報得川といって その海に面して橋があったんです この橋も爆撃でやられて、ちょっと残っているところをみんなゆっくり渡って 母は、自分で米は作っていましたから精米していない米を、非常食に持っているから 一升瓶に入れて棒でつついて精米している時に 夕方、爆弾が前の家に落ちたんです そしてそこが燃えたんです あとからトロトロ火が燃えて長いこと燃えているから 臭いが嫌で、後で、聞いたら 人が燃えているということだったんです 岩肌の古い墓 そこから出て、近くに岩のそば、岩肌に面して古い墓があったんです そこを叔父さんと父が、(墓にあった)大きい甕、カーミを取り出して 自分の家族だけそこに入ったんですけど、本当に墓は狭かったんです 絶えず叔父は父と連絡しあっていたんです 夕方になると母と姉は水汲みに、食料探しに出たり 避難路の家族 そこの墓も危なくなったから出て いつもの通り 父はモッコ、昔はオーダーと言っていた それを担いで 父が真っ先、母が一番後ろ、子どもたちは真ん中で 喜屋武へ行く時だったと思いますけど 避難路の死体 父親みたいな人と息子みたいな人とお母さん 縦に並んで、髪もこんなになって半分埋まっているんです、その3名 2・3日前に、死んで波でやられて砂に埋まったんだなと思ったんですけど 浜辺を歩いている時には、湾には海水が溜まったところがあって そこで若い女が2人浮いているのも見たし 少し行くと、老婆が変な格好で、護岸にくっついて キビをくわえているような感じで 死んでいるのも見たし、いろいろ見てきたんです かわいそうとは感じなかった 自分も慣らされていたんですかね かわいそうとか気の毒とかそんな感情もわかない 人間じゃなかったと思います、後から考えると 艦砲の破片 どこで艦砲が落ちたのかわからないけど、14・15センチの (爆弾)破片が、火になって、ブンブンブンって飛んでくるんです 私はそれをどこに行くか見ていたが、目の前になったら見えなくて サッと来てここ(足)をかすって地面に落ちたんです、地面に食い込んで 後で見たら、厚みがある黒っぽい破片だったんです 飛んでくる時は火になって飛んできました 大きな声で泣いたから、痛さよりやられたという思いがあるもんですから 母親は後ろからとんできて、持っているアンダマースー・豚あぶらに塩を入れたもの それを塗って、モンペを2枚着けているから傷は浅かったんですが、かすって地面に立っていたんです 喜屋武 そして着いたところが喜屋武の山だったんです 今、考えると、ジャングル、密林みたいな山だったんです 石を使って、積んで豚小屋のような建物があったんです 囲って上はないです 兵隊が、3名か4名いたと思ったんですけど、入っていたら ここは(隠れる場所が)何もないところだから、母が 「子どもたちだけでもここに入れて下さいませんか」と言って頼んだんです そしたら「できない」と断られて、しょうがないから離れて穴を掘ったんです 絶えずスコップは持っていました、父は 曲がって、頭が隠れる深さを掘って、自分たちの穴、叔父たちの穴、それで昼の爆撃を逃れたんです (爆撃が)凄くて、後からこの木も折れて 空が全部見えるんです、(さっきの)石を積んだところに 入っている兵隊は2人ぐらい即死しているんです 父も叔父も相談して「ここが喜屋武の岬だから」 「最後だから、家に帰って死のう」と言って、二人相談して 海水のご飯 そこで(全食糧の)ご飯を炊いたんですけど 苦かった覚えがあるんです 海水で炊いたご飯だったと思うんです 昼は攻撃するから、(夜)この浜を歩いていたら 林みたいな、細い枝の高い木がいっぱい生えたところに着いたんです そこで土砂降りの雨があったんです ここで一晩明かして、浜を歩いて行ったら、大きい通りに出て そこで自然に捕虜になったんです 捕 虜 今の南部病院近くに、大きい岩があったんです そこに銃を構えて2・3名立っていました、米兵が 誘導されて、糸満のロータリーまで そこへ行ったら、いっぱい避難民がいるんです みんな座って疲れた表情で それからトラックで豊見城の伊良波に連れて行かれて 伊良波からまた(本島の)中部 高江洲収容所 着いたのは、高江洲集落ってありましたか、中部に そこに着いて、水が欲しいから母が 水を探して汲んでおいでといって 田んぼが、2つ重なって、段があって、そのそばから 小さい湧き水がチョロチョロ流れていたんです 「この水きれいね」と妹と二人 「うん、きれいだね」と汲んで持っていったら 「美味しい、美味しい」って、みんな田んぼの水を飲んだんです 前原収容所 それから(うるま市)前原のトゥールガマに 着いたんです。着いた時は、大きいテントで シラミにやられていますから、シラミを駆除するためにDDTを撒かれて テントの中は一時です、中部は捕虜になって早かったのか 規格ハウスが木材で作られた家があったんです、前原は 規格ハウスに入って、父の行方も探せて 一時その規格ハウスで生活して、学校も出たんです、前原で 校舎はなくて木の下に、当時、カマンタ(鍋の蓋)ってわかりますか 米をとったわらで編んだのがあったんです、あれをもらったのか それを敷いて、木の下で勉強したら、地元の小学校の子たちから 「メーバルヌ(前原の)カマンタ」(とあだ名をつけられ)言われたことがあります たぶん1年ぐらいは、いたかもしれません 座安小学校のテント生活 渡嘉敷に戻る前に、我那覇だったんじゃないですか そこも一時で、座安小学校にテントを張って 床もあったんです、2所帯、公務員が入ったんです こういうテントがあったんです、2所帯ずつ入れるテントで 渡嘉敷へ戻る (家は)残ってはいました、改装して、しばらくはそのお家で 配給でメリケン粉はありましたが、油がないから、恥ずかしいんですけど モービル天ぷら 機械の油だったと言っています、あれを利用して 最初はミカンの葉っぱを入れて匂い消し、だった感じがします メリケン粉で、てんぷらを作ったんです、食べられはするんです、その時は 上田小学校新設 木の下での勉強でした、先生は子どもをおぶって、(生徒は)石を尻に敷いて そんな勉強だったんです、終戦直後は それから上田小学校に行ったんです 上田小学校は戦後、一豊と二豊から 両方から生徒がきたんです、戦後一緒になったのは 国民学校時代の人は、1か年しか一緒じゃなかったかと思います 戦死した次男兄 (次男)兄は優しかったんです、妹たちもかわいがるし ままごと遊び、友だちがきて 一緒に、木の葉っぱで、お金をつくってくれたり それを友だちが今いうんです「お兄さんはよかったよね」って 「ままごとの時は、お金をつくってくれたりしていたよね」って話してくれるんです 優しい兄で良かったです 二中健児の塔慰霊祭 私は二中健児の塔で、毎年慰霊祭へ行っていたんです 足がこうなるまでは、妹と二人 校歌が流れると 二中の校歌が流れると、涙が出てたまらなかったです 兄がよく歌っていたんです 歌詞は覚えていないけど、流れがわかるから 慰霊祭の度に泣いていました 次世代へ 今の世の中の情勢を見ると怖いです あんな戦(いくさ)はもうないだろうとは思いますけど 一発でやられるからそんな感じだと思うんですけど あんな戦(いくさ)は本当に、大変でした 若い人に、そんなことも知ってほしいなと思います 収録日:2017年(平成29年)12月7日 |
