渡橋名 高良 健二(村内避難)_1_全文
| ID | 1170141 |
|---|---|
| 作者 | 高良 健二 |
| 作者備考 | 出身地「渡橋名」、1930年(昭和5年)生、14歳(県立二中1年) |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 村内避難 |
| 資料名(別名) | 渡橋名_高良 健二_「14歳の高良健二さん。米軍が迫る中、祖母のために近くの壕に残ります。誰もいなくなった集落で、寂しさを紛らわすためハーモニカを吹いていたその時に…」_1_全文 |
| キーワード | 村内避難、10.10空襲(十・十空襲)、二中 |
| 総体1 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶_映像資料 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc2、YouTube @TGDA_okinawa |
| 出典1リンク | https://youtu.be/ItmitVABCc4?feature=shared |
| 出典2 | |
| 出典2リンク | |
| 出典3 | |
| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 渡橋名 |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
| 年月日(始) | |
| 年月日(終) | |
| 年代(西暦) | 1940年代 |
| 年月日(和暦)(終) | |
| 年月日(和暦)(始) | |
| 年代(和暦) | 昭和10年代~昭和20年代 |
| 始期(年・西暦) | |
| 始期(年・和暦) | |
| 始期(月) | |
| 始期(日) | |
| 終期(年・西暦) | |
| 終期(年・和暦) | |
| 終期(月) | |
| 終期(日) | |
| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010604文化行政 |
| 収納分類4 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶 |
| 資料内容 | 戦前の渡橋名 渡橋名は、40から45戸の 小さな 字で 人数も250名ぐらい 戦前から 上級学校進学者が多い集落です 県立二中進学 当時は、沖縄県立第二中学校の生徒は、私の字が多かった 誰かが「あんたは進学しなさい」と言われなくてもその雰囲気ができている 先輩も「次は、君たちも入れよ」というふうに しぜんと「次は僕も行かないといけない」というところあった うちの字には。 那覇に親戚の家があったわけ。東町に。 そこに下宿してニーケグヮー(二階)を勉強部屋にして 親戚だからご飯も食べて、学校に通っている 僕の場合も、親戚の人が教員していたが、若狭町に住んでいた その家にお世話になって、二中に通っていた。崇元寺とか県庁前通って 10.10空襲(十・十空襲) 朝早く爆音がボンボンボン。始めは、まさか敵機と誰も思わない 日本軍が今日も演習かなと、軽く思っていたが、爆音がどんどん大きくなって 今度はサイレンも鳴り始めて、さあ大変ということで 庭に 簡単な防空壕 掘ってあったから、そこに飛び込んで 敵の飛行機が狙った所は那覇飛行場、那覇港、垣花の高射砲陣地,天久の高射砲陣地。 そこに米軍は、爆弾を落とした、那覇の港は若狭町からとっても近い 壕の上付近から、機銃を撃ったと思う。音がとってもグヮーラナイ(大きかった)。ガラガラ 機銃掃射、僕の頭の上で、バラバラやっている 聞いたことない爆音、聞いたことのない機関銃の音。 豊見城に、逃げようと壕から飛び出て、道に出たら 機関銃がバラバラバラバラと始まって それからは、我先に自分の足の向いた方向に、散り散りバラバラ 日も暮れてきて、誰1人いない、見たら、お墓が開いている お墓は人がいっぱい入っている お墓は知らない人ばかりだったが、一晩中入っていた 翌日は空襲がなかったので、墓から出て、二中、今の那覇高校のそばを通ったら 二中の校舎、二階建てだったが、ぺしゃんこ、一晩で焼けて 煙が、ぽつりぽつり、変な焼け臭いがする 那覇の街も一晩で全部(焼けた) (渡橋名の)家は家族5名にいて、那覇がやられたのがわかるから とっても心配したという。一晩帰ってこないから。 「ハッサビヨー、シワシタヤサ(もう心配したさ)」って。家族もホッとした 二中学徒隊 二中の場合には、1年生はまだ子どもだから、家族と一緒に避難しなさい(ということ) 2年3年生は、軍の通信隊。石部隊だった。4年生5年生は初年兵 本当は、5年で卒業だが、戦争が始まったから、人が足りないから、早く兵隊に行かせるため 1か年間に2回卒業式させている。本当は5年生だけ卒業だが 4年も、2か月くらい後に卒業させて、4年生5年生が初年兵、初年は軍人だから、軍隊だから。 1年生は避難組。僕はあと1か年先に生まれていたら、今頃いない 饒波・高安への避難 敵は、与根の海岸から、上陸する可能性がある、慶良間方面、海、見たら、船がいっぱい 浅瀬だから上陸しやすいわけ 「渡橋名の住民は高安、饒波、向こうにすぐ全員避難しなさい」 そういう命令がきたから、字民はみんな、饒波とか高安方面に避難した 運搬係 若者が夜、シマ(字渡橋名)に帰って、食べ物を持ってくる 若者は運搬係、僕ら運搬係をした スパイ容疑 自分のシマに、人が1人もいなくなる。ということは、変な気持ちになる 自分1人、誰もいない。僕以外いない、とっても変な気持ち。寂しい みんな避難しているから。僕らは食糧取りに、家にきて 僕は二中の1年生、1人は開南中学2年生、1人は沖縄工業の3年、1人は鹿児島出身 また沖縄工業3年生、僕が一番下だった。 あんまり寂しいから、1人がハーモニカを、持っているので ピピピピとやった 当時の学生は手旗信号、モールス信号、これを習って興味もっているから 皆遊びながらやっていた ピピピピピ ポポポポ 軍歌も盛んだから、 門で歌ってた、後ろのほうは日本軍の茅ぶきの兵舎があった この部隊の兵隊が、僕らやっているのを、後ろで聞いて、すぐ 日本軍が 40・50名ぐらい着剣をして、僕ら4名「庭に集まれ」と言って集められて 僕らの回りを日本軍が着剣して 向かっている 月の晩だった 刀と月の明かりが、反射してピカピカして、班長が「家の中入って、機械類、アンテナ全部」 「調べてきなさい」部下に言った。部下は「はいはい」 走っていって家の中を見てきた、部下たちは、出てきて「班長、異常ありません」って 皆報告していた、後から兵隊の1人が「実は僕らはこの屋敷の後ろで聞いたが」 「盛んにこの家で機械の通信している音を、聞いた。沖縄の人は戦争なったら」 「スパイする人もいるから、これを探して、着剣で」 「刺し殺しに来たんだ」と言って、聞いたから、兵隊に「この音だったら」 「石部隊からモールス信号を習ったから、練習していたんです」 「軍歌を歌っていたのは寂しいから」と、軍の解釈は、このピピの音を消すために 歌を歌っていると 全部誤解している。班長は「そうだったらやってごらん」と言われたので 僕らが ピピピピピやったら 班長は 「わかった。君たちは、スパイではないんだね」と言われて 「沖縄の人はスパイする人がいるから」と言って あの時、僕らが説明を出来なかったら、すぐ殺された 壕から逃げる 渡橋名団地の壕からは、保栄茂グスクの向こう、米軍が鉄砲を持って来るのが見えた 早く逃げないと大変だから、夕方、家族、みんな出て、伊良波中に行く所、座波名森 向こうに日本軍の大きい壕があるわけ 兵隊に、この壕に入れてくれと、お願いしたら、「いや、今、首里方面から」 「部隊がたくさんここに移動してくるから、民間人は入れることできません」と断られた 僕らは入れないから、「ああそうか」と言って、出て そして、自分の家に帰ってきた 家に戻ったとき 家に来てから「敵はここまで来ているから、南方面、真壁、喜屋武方面に逃げようか」と 僕らには75・80近くのおばあがいた おばぁをおんぶしては歩けない。おばぁを1人こっちに置いて 逃げることもいけないし、仕方ないから、どうせ死ぬんだったら、家族一緒に おばぁも一緒に死んだ方がいいと。逃げられない状態なった 隣近所は逃げて行くのに、自分だけ取り残されて 仕方がない 捕虜になる 夜、元の壕に入って入口を草グヮー、木の枝、折って隠した、翌日は、米軍が来て 入り口明るくなった、蓋を全部取って、米軍が、少し待ったら「デテコイ、デテコイ」 叫んでいる、みんなびっくりして、ますます奥に入った。出てこないから、米軍は ガス弾を壕に投げ込んだ。壕の中は煙いっぱい、息もできない。そうなったから、仕方なく 壕から出て行った。そこで僕は捕虜なった 僕らの壕の仲間にハワイ帰りがいた 60(歳)ぐらいなったかな、泡瀬のタンメー(おじいさん)、この人英語わかるから おじいさんは「米軍は 殺さないって」(実際はとなりの字の)渡嘉敷に連れて行くが 米兵は 那覇しかわからないから「ナーハーナーハー」した 僕たちを並べて 米軍が鉄砲を担いで(豊見城村)渡嘉敷へ。渡橋名で捕虜になったのは 渡嘉敷に連れて行かれた、(避難民が)たくさん集まっていた 水陸両用車 (渡嘉敷には)1週間ぐらいいたかな 歩いて(糸満の)潮平へ。向こうまで歩いて行った 畑に一晩寝かされて、それから翌日は、海岸から 皆(水陸両用車)に乗せられた みんな泣いて、もう僕らは、今から海に捨てられに行くといって 沖に行ったら、船が待っていた 安谷屋収容所 母船に乗り換えて、次に中城に行って 安谷屋集落 1つの家に大勢入られて 1カ月くらいいた 安谷屋では 、部隊からの配給、ご飯なんかもあった 山羊も逃げて歩くから、捕まえて殺して、食べてみたり、ブタを殺してみたり 砂糖樽もいっぱいあるから 樽から砂糖を食べてみたり。1カ月ぐらい 中川収容所 それから、金武の中川に行った。野っ原にテントが張られていて、家も自分たちで作りなさい みんな自分たちで山に行って木を集めてきて、茅も 自分たちで家を作って5・6カ所ぐらい入っていた 軍作業は米軍のトラックに乗せられて行って テント掃除をしたり、色々やって、お弁当にビスケット4枚とジャム これがお弁当だった。これだけでもみんな、ありがたいと言って食べていた 帰りは金武なんか、民間の道の側に、カンダバー(イモの葉)とか野菜があると ちぎって袋に入れて、家に持って帰るわけ。これが戦果袋というもの、「戦果袋」 僕ら米軍の部隊の近くに行って、アメリカの缶詰でも盗んできた これだけ米軍に損させている。「戦果」戦の価値 泥棒ではあるが、日本人としては、面目でもある 戦後あとは泥棒と繋がってきたと思うが 皆腰の所に袋ぶら下げているわけ。あったらすぐ入れる 道でも歩く時は米軍は物が豊富だから、トラックからお菓子も缶詰なんかも 道に落ちる場合がある。缶カンの時は足で蹴るわけ 蹴って中身があれば重い 蹴って重い時は取って、すぐこれに入れる これ「戦果」 祖母の死 (おばぁは)安谷屋に1か月ぐらいいて、山原の中川で亡くなった 畑に穴を掘って埋めた、後で行ってもわかりやすいように ビンに名前を書いて一緒に埋めた、戦後その遺骨をとりにいった 帰村 しばらく待ってから山原避難した人々も、ポツリポツリ自分の村に帰るようになった (帰村が始まったのは)いつというのは、たぶん日本が降伏をして戦争が終わったこと はっきりしたから避難民を、元へ帰したんじゃないかなと 日本が終わらん間は、ずっと山原だったはず。終わってないんだから 8月15日だから(帰村は)9月か10月だったのか 次世代へ 戦争は、平和と反対のこと ものの考え方が、異常心理になる。正常だから助け合い、親は子どもを先に 逃がすとか、かばうとか、物も、他人に分けてあげる 戦争にはそんな余裕はない。全部、取って食べる 親が自分の赤ちゃん、子どもを忘れて、逃げてもわからない 自分だけチャーヒンギー(逃げっぱなし)。防空壕に入る時でも 平時なら「あれあれ来た来た、早く早く」子どもを先に入れるが 弾がパラパラと来たときは、考える余裕はない。自分から先に飛び込む だから、衣食住足りて礼を知ると言うのは、こんなものだと思う なぜ戦争が起こるのか。戦争は、強いていえば、欲張り 自分だけ儲けようとか自分だけ得しようとすると。これが喧嘩の繰り返し、戦争もそうだと思う よく考えてやらんといけないんじゃないかな。あんまり欲張りになったらだめだと思う 収録日:2017年(平成29年)11月16日 |
