座安 大城 光雄(南部避難)_1_全文

ID1170131
作者大城 光雄
作者備考出身地「座安」、1934年(昭和9年)生、当時10歳(小学校4年)
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)座安_大城 光雄_「10歳の大城光雄さん。学校で、先生を監視する将校、方言札を、今も鮮明に記憶しています。日本軍による追い出し、南部避難。戦後の遺骨収集が今も心に…」_1_全文
キーワード南部避難、10.10空襲(十・十空襲)、伊良波収容所
総体1語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶_映像資料
総体2
総体3
出典1語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc2、YouTube @TGDA_okinawa
出典1リンクhttps://youtu.be/e8dza0zaqco?feature=shared
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国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
座安
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)1940年代
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)昭和10年代~昭和20年代
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010604文化行政
収納分類4語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶
資料内容戦前の座安
私達の集落の前は全部耕すぐらいの肥沃な土地で、農作物もよくできていました

祖 父
祖父は馬車ムチャーで,みんなの物も荷物を集めて、那覇に持って行って
港の近くに(貨物の)集積所があり、そこまで運んでいました。

親の手伝い
家は、田んぼもあったので、収穫の時期は私も(脱穀機を)踏んで脱穀を手伝った。
畑に脱穀機を持っていった。馬車に乗せて

豊見城第二国民学校
(学校は)豊見城第二国民学校。我々からは国民学校に変わった、その前は尋常小学校
昭和16年から戦時体制になっているから。国民という名前。

集団登校
集団登校というのは、座安ぐらいのもんじゃなかったかな。みんなに見せしめだよ
みんなが見ているんだろうという感じで、そして(座安から反対側の)正門から入ってきて
それから御真影がある奉安殿、天皇陛下の写真が飾ってある、そこの前に来て
最敬礼して、いろいろ訓示を言って
「はい、解散」とか言って「各自解散」とか言って、自分の教室に行きよった、毎日よ

配属将校
校長室の隣に、軍のしき棒持った配属将校の部屋があって
そこに出勤するんですよ、校長室の隣に
軍国教育をやっているかどうかを監視している
しき刀もって、朝礼も一緒に立っている
何も話もしない。ただ監視

方言札
小学校入ったら、ウチナー口は、使ってはいけない。
ウチナー口は、兵隊がスパイ用語だからと
沖縄の人同士は、意思疎通図るのに標準語よりも、私達はウチナー口が良かったのに
だからなるべくは方言使ったほうがいい。いつの間にか使って、後ろからコツンとやられてさ
「お前、標準語使わなかったな、方言使ったな。スパイ用語使ったな」して
上級生が、取り締りしないといけない。学校内でよ。兵隊じゃない
それで「お前、方言札」って、首にかけられる。こっちに書いてある
私は次の方言札、方言使う人探さないといけない。たらいまわしなんだよ。
後ろから、ポンと叩いて「アガー(痛い)」と言ったら、「アガー」と方言を使ったと、札を渡す
滑稽でしょう。そんなもんよ。
学校では一切私語を謹んでいたよ

3つの壕
私の家は、防空壕を3つ掘ってあった。どうしてかと言うと、
おじいは、デージな丁寧に「こっちから来たらこっちに逃げようね」
「こっちから来たらあっちに逃げようね」と3つ掘ってあった

渡橋名の壕
今の渡橋名団地のあの山。大きな山だったんですよ
そこに掘って。座安に近いから。あれは早いうちに掘った

名嘉地の壕
1つは名嘉地と伊良波の間にある。そこにも掘った。それもニービ(砂岩)壕で
ワイトゥイ(切り通し)に掘っていた
それ使わなかったけど。そこも掘って、そこからあと最後は

給食センター南側の壕
給食センターの南側。これは大きな防空壕ですよ。
集落は全部そこに掘ったわけよ。座安の人たちはみんなそこに
壕は、もう個別にだから、20ぐらい掘ったはずよ。各家庭ごとに
我々そこは通り抜けできればいい、水汲んで届ければいいわけだから
奥は暗くなるぐらい掘ってあったよ。入り口は明るいけど、奥はロウソクつけんとさ
中では一緒に(つながっていて)、隣の入り口は別よ。お互い同士、つきあい隣になっている

壕掘り
(壕堀りは)5年に上がる頃さ。昭和19年の初め頃です
戦争だから向こう始まっているわけですよ
だから「これやばいぞ、これこっち来るぞ」して、それで慌ててチャーフイ(堀り)した
集落には、夜は住めないから、みんなここで寝泊りしていたよ

日本軍の壕堀り
今の若知花(ワカチバナ)の山はみんな日本兵が掘ったんですよ。短期間で
座安側から掘って、ずっと掘り下げていって渡橋名に抜ける
また上田に抜ける。それから(今の)伊良波の小学校の大きな山に
向こうにも掘っているから、2つ一緒にこうして通してしまう
そういうようにしていたわけ。それぐらいたくさんの土を出して
炭鉱を掘っている連中だから、もう早かった

伊良波の慰安所
伊良波集落の一番後ろのほうの屋敷ですけど
その近く、隣辺りに長屋があって
そこに朝鮮の慰安婦が7・8名いた
17・18(歳)ぐらい
洋服は、普通の国防服です
おばあたちは、毎晩、女をいたずらするために、連れて来ているの、分かっていた
寂しい思いしていた。異国に連れられて来て
(伊良波の)「上前」のおばあが、可哀そうになって
(私のおばぁに)「あんた達は、家で毎日、イモを炊いてるし、豚も養っているから」
「沢山炊くから、食べ物を持たせて」って言うから(私が持って行った)
そしたら喜んで。もうすごい喜び方、食事をありつけないぐらいだから
小さいザルに持って行って、八名ぐらいが食べられるように持って行ったよ

10.10空襲(十・十空襲)
7時半頃学校へ行って、学校で遊んでいたら、何かしらんけど、あの辺から煙が出ると
もう大変、真っ黒い煙が出ているよって
後ろの山にいる兵隊たちが降りてきて、あれは演習だよ、演習だよと言った
アメリカ軍が空襲しているとは、思ってなかった。我々みんな
しばらくしたら、燃え出した。あっちこっち、飛行場も
いやいや、これ敵だ、敵だと分かった
学校に行っているのに、学校も取りやめ、家に帰されて
そしたら、その日のうちに那覇はほとんど焼けていた
軍港も船が沈められている
夕方は、我々の学校に焼け出された兵隊たちが着の身着のままみんな入り込んできた
だから、学校は翌日、行けなくなった。ここは軍が使うって
可哀想なぐらいみすぼらしい格好でみんな入ってきたよ、小学校に
10.10空襲(十・十空襲)がきたから、我々は、学校に行けなくなった。学校が占領されていた
怪我人が来て。だからその前に(防空壕に)行っているよ

壕生活
準備はしているわけ、防空壕に住むように
食べるものもみんな持ち込んでいるから
いい防空壕を掘ってあったから(おじぃが)「そこでしのげるよ、心配するなよ」と

日本兵による追い出し
(後で)壕を追い出されると思ってないんだよ。日本軍に
座安の集落の人は、その辺に一緒に、各々の防空壕を掘っている所に
この連中が来たんですよ
それが日本軍だけど、武器らしい武器も持っていない
手榴弾を2・3個ぶら下げてはいたけども、なにもない。これが兵隊かと思うぐらいの兵隊でしたよ
我々の所へ上がってきたので、防空壕にあるものを出して、食べさせて、いろいろやっている間に
ずっとそこに居直り戦術。「お前ら出ていけ」と言うわけだよ
これは我々が使うと言って
この人たちは、戦争やる人たちじゃなかったよ。敗残兵みたいなもの

南部避難
敵は奥武山、壺川、辺りにきているよ、那覇のほうからも上がってくるよ
あっちからも来る、こっちからも来る
「こっちは危ないから出よう」と、出ていった
(南部避難は)渡嘉敷から保栄茂に抜けて
そしてずっと、東風平を抜けて
八重瀬あの辺の山のすそ野を通って真壁に抜けて行った
真壁も、空襲で相当痛めつけられて大変だった
真壁小学校の所の大きなガジュマル木の上に人間が
死んだままの人間が飛ばされてきて、腐って木の枝にぶら下がっていた
住民が何名も死んで、うじ虫が湧いていた。そんなのも見たし

南部避難 小波蔵
おじいと二人で墓を開けて、普通の人の墓だから、本当は手をつけたくないけど
開けてから、墓の中に入って手を合せて、、「助けてください」って入って
入り口は整理して、甕なんかよけて、横に入れるように、中を整理した
ところが、私達と一緒に屋敷にいた兵隊が、墓を開けるのを見ているわけ
おじぃと二人で墓を開けるのを見ている
私達に開けさせて、入ろうと準備しているところにやってきて
「これ我々が使うよ、お前ら出ていけ」って
「もう兵隊に墓を渡そう。うるさいから」と私達はまたガジュマルの木の下に行った
ところが、この墓は、その日にめちゃくちゃにやられて
中に入っている人たちは死んでいるよ、みんな。墓がボーンとなる、形も無くなっていたよ

いとこ姉の死
(糸満の)小波蔵で、いとこの姉二人が死んでいるわけよ
朝起きて、食事して、みんなでこう。固まって、ドンドンドンドン聞こえるから、弾の音が
輪をくんで縮こまっていたわけ。入り口の奥のほうで。弾が落ちて。
入り口の私たちは背中向けになっているから、そこに当たったわけ
飛んできたわけよ。(いとこの)二人が真っ先にやられたわけ
(いとこ二人は)19歳と17歳。

祖父の負傷
うちのおじいはここに破片が入り込んで、肺のほうに
呼吸するとすぐ血液がフーって出てきたりするわけよ
私に当たったものが向こうに入っているわけ。私が取ろうとしても取れなかったわけよ
吸っているあいだに中に押し込んでしまったわけよ。破片ごと肺の中に吸い込まれているわけ
しかし、元気だったよ。「私は今は死なないよ」とか言ってさ
元気に話していたが、体力は消耗していくわけよ

豊見城へ
ここでは、死ぬ以外ないから、夜になったら、豊見城に帰るということで
みんな歩け歩けで歩くわけです
ここに御嶽が、集落の拝所があるから、そこに潜んでいたわけ
夜が明けるのを待っていたよ
畦道もめちゃくちゃなっているのを分からんで歩いていて
これは上等の道だと思ったら、私は死体を踏んでしまったわけ
なんか臭くて。変な臭い
そこを越して行ったら、道のあっち側から(アメリカ軍の)兵舎が丸見え
そこで見つかったわけよ

捕虜になる
「デテコイ、何もしない」という言い方するわけ
我々に、あっちいけと言うわけ。アメリカ兵の後ろに行きなさいと

潮 平
潮平に下りて行った。収容所になっていた。畑の中は全部踏み均して、アメリカ兵がいて
住民もたくさん、いっぱい集められていた


そこで(捕虜の住民達と)合流した。潮平から船に乗せられて

野嵩
北谷の浜に降ろされて、そのまま野嵩に。トラックに乗せられて。野嵩の集落に
何も焼けてなかった、野嵩の集落は。瓦葺きの家もみんな丈夫な家だった
そこでみんな収容されて、大きな家には先遣隊、早く行った人たちがいて
ちゃんとした瓦葺き家に入っている。我々は馬小屋に入った
食べるものは不自由しなかったよ。軍が持ってきたものをみんなで加工して
そこにはやっぱり住民との接点があって、アメリカ軍が、役割りを分担して
受け入れ態勢できていたはず、捕虜として
だから心配なかった
食べ物の心配はなかったよ

祖父の死
(家族で亡くなったのは)私のおじいちゃん
野嵩に収容されてから、野戦病院に連れていったけど、
今だったら大手術して肺から弾を取り出すことができたはずだが
2週間ぐらい、14、15日ぐらいは生きていたのか、最後には衰弱して亡くなった
しばらくしたら山原にみんな連れていかれた

古知屋開墾
松田という所。古知屋と言っていた。古知屋の松田
開墾集落といって、山の上に木を切り倒して避難民を迎えるために
島尻からたくさんの人間が行くから、木を切り倒してその後に長屋を作って
茅葺の長屋を作って、そこに何所帯もいっぱい住んでいたよ
山原の山の中だから畑もないよ。そんな所に避難民を
海岸では、アーケーグヮー(はまぐり)を探したりいろいろできたかもしらんけども
山だから海岸じゃないから、何もないです。桑の実はあった。木に巻き付いた山カズラみたいなもの
これもスープに入れて、アメリカ軍から配給の粉スープを、空き缶で温めて
それに入れて、食べるぐらい。よくもしのいできたと思う

古知屋 学校
学校行っても、空き缶を持ってきなさいと、缶詰缶にスープを入れて、飲ますわけよ
歩いていったよ。周辺は小川があって、谷を越え、野山を越えて
向こうの大きな通りに学校があって、テントが張ってあって、そこが学校というわけだ
何も教えないよ。勉強もないよ。それが学校。みんな集めるための
学校というもんじゃないよ

帰村
(古知屋収容所には)3カ月ぐらい。帰る時にはクリスマス前。
11月、12月に入っているんじゃないかな。
帰ってきて、伊良波に、また収容所があって
伊良波の畑にみんなテントを張って、一時的に収容されていたけど

帰字
(伊良波収容所)から座安の地域に戻ってきて、仮小屋がみんな住まいとしてあてがわれたわけ
配給ヤー、規格ハウス
元の生活に戻るには、時間がかかった

豊見城中学校
中学校は,新生中学があとからできたわけです。豊見城中学校ができたけども
我々が小学校7年生の時に、中学校ができたわけ
新生中学の2年に編入よ。そんな時代ですよ

いとこの遺骨
従姉妹の遺骨は,(亡くなった場所の)集落の方が片付けていました、集落内にある骨は。
片付けて、ウンチケーしてるから,向こうで拝んで下さいと
持って行ったというわけよ、魂魄の塔に
それで我々は、その集落の屋敷から、石を十って墓に納めた

遺骨収集
(遺骨収集は)参加した。高校時代。夏休みはそればかりやったよ。カマス担いで
茂みがいっぱいあって、人が入りにくい、ハブも多いから。みんな手分けして探した
ああ、人がいるって、友だち呼んだら、行って、みんなで手分けして収容すると
腕輪時計もそのままあるし、いろいろあるし
今だったら、どさくさじゃなければ、遺品として返すべき所に返していたはずだけど
とんでもない、そんな余裕ないもん。相当な人間が死んでいるから
軍隊は、認識番号があるから、首からかけてこれをそのまま返せばいいわけだから
しかし民間人は何にもない。どこの誰かも分からんわけだから、とんでもないあれでしたよ

次世代へ
自分の心だけで、相手を治めようとするのは間違っていると
血気にはやったら後で後悔するぞと
ウチナーの言葉にあると。「ヤナイジグヮーカティ」手を出したら潰れるよって
だから仲良く辛抱して、資源がないんだから日本は。貿易立国で行けばいい
それも大事なことですね

収録日:2018年(平成30年)10月25日

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