伊良波 大城 辰男(学童疎開(宮崎県北郷村))_1_全文
| ID | 1170121 |
|---|---|
| 作者 | 大城 辰男 |
| 作者備考 | 出身地「伊良波」、1933年(昭和8年)生、当時11歳(小学校6年) |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 学童疎開(宮崎県北郷村) |
| 資料名(別名) | 伊良波_大城 辰男_「11歳の大城辰雄さん。学校の「米英撃滅」体操を今も覚えています。宮崎県へ学童疎開。いじめにもひるまず、寒さとひもじさに立ち向かったのです。」_1_全文 |
| キーワード | 学童疎開(宮崎県北郷村)、学童疎開、伊良波収容所 |
| 総体1 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶_映像資料 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc2、YouTube @TGDA_okinawa |
| 出典1リンク | https://youtu.be/9vB3r1tp56c?feature=shared |
| 出典2 | |
| 出典2リンク | |
| 出典3 | |
| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 伊良波 |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
| 年月日(始) | |
| 年月日(終) | |
| 年代(西暦) | 1940年代 |
| 年月日(和暦)(終) | |
| 年月日(和暦)(始) | |
| 年代(和暦) | 昭和10年代~昭和20年代 |
| 始期(年・西暦) | |
| 始期(年・和暦) | |
| 始期(月) | |
| 始期(日) | |
| 終期(年・西暦) | |
| 終期(年・和暦) | |
| 終期(月) | |
| 終期(日) | |
| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010604文化行政 |
| 収納分類4 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶 |
| 資料内容 | 戦前の伊良波 畑はキビと甘藷。芋が主体です 与根の近くまで全部伊良波の田んぼでした。伊良波は一番田んぼ大きかったんです 綱引き 旧の6月25日に、綱引きがありました。 田んぼがいっぱいあって、藁がいっぱいあるから、大人綱、子ども綱といって イリ(西)アガリ(東)に分かれて、大変盛大でした。旗頭もあって 豊見城第二国民学校 (小学校は)豊見城第二国民学校です 6年生でした 男女共学ではなく、女性と男性別々ですから 4クラスあって、2クラス男、2クラス女性だったと思います 「い組」「ろ組」「は組」「に組」、「いろはに」でした 奉安殿 奉安殿は教育勅語とかを納めていたんじゃないですかね。 普段は開かなかった。なにか行事の時に、例えば天長節とか、紀元節とか そういった時に、開けて、中から何かを出して、校長先生が読みなさったから 確かにそういったものが入っていたんじゃないかと思うわけです 竹やり訓練 6年生前半からは、ほとんど授業はないです 全部(竹やり)訓練とか、兵隊の手伝い 井戸の石運び 運動場に兵隊が井戸を掘って、4年生から高等科2年生まで 井戸に入れる石を、与根の浜と、豊見城グスクから石垣を壊して、適当な石 (子ども)二人でザルに(のせて)運んだのを覚えています 軍歌と体操 歌は、全部軍歌みたいな、戦争につながる歌ばっかりでした 体操は「米英撃滅、米英撃滅」って、こんな体操だったんです 「米軍撃滅、米軍撃滅」って 本当ですよ。これが当たり前、当然だと思ってました 学童疎開・船 (疎開先は)宮崎県の東臼杵郡北郷村というところです (疎開船の)伏見丸は完全な木炭船でした。運搬貨物船でした (船は)真黒く、薦(こも)を敷いて、ムシロみたいに、そこで雑魚寝だったんです 1週間から10日。 魚雷を回避するためにジグザグで(進んだり)停泊したりして 時間かかったという話を(あとで)聞いたんですが、あの時はわかりません ただ旅行の気分で行ったから 学童疎開 鹿児島到着 鹿児島港に着いて、2泊ぐらいしたと思います 学童疎開 山道 汽車で門川まで行って、トラックに乗り換えて、八里(約32㎞)山奥の北郷まで 5時間ぐらい トラックにいっぱい荷物積んで、その上に乗っかって行ったのを覚えてます 途中で(降りて)おしっこしても、かけっこして乗れるような遅さだったんです 一方の車がバックしたり、ポケットに入って、すれ違うような細い山道でした 「山の中に捨てに行くのか」と みんな話したんですよ 9月だったと思います。夕方から寒いような… 学童疎開 北郷国民学校 (疎開先は)北郷国民学校です。みんなで60名です。うちは兄弟二人。弟と二人。 保栄茂が一番多かった 20名ぐらい? 上田がその次に多く。他の集落は、一人か二人ずつだったんです (寝泊りは)学校の宿舎。1教室が、まずこれだけとすると、真ん中を 衣類や本を入れるタンスを、両方に真ん中に 女性と男性を、こうして間仕切りして、そのままです こうしたら見えるぐらいの高さで 学童疎開 ひもじさ 初めは楽しかったですよ。いろいろ差し入れとか、どこの集落から何があるとか あっちは芋のことを唐芋と言ったんです。唐芋の差し入れがあるとか ぼた餅とか、そういった差し入れがあって ごちそうもあって楽しかったんですよ。しかしあっち(北郷)も食料事情は悪いですから だんだん(差し入れが)なくなって、それから自給自足みたいな感じになって いくらお箸でかき回しても、米つぶ一つも浮かないような 糊みたいな 食事が毎日ですよ。お椀の一杯。おかゆでもないですよ、あれは これでうんとひもじい思いをしました 学童疎開 泥棒 うんと泥棒しました 学校にいながら、学校には行かんで、川辺に行って魚を穫ってきて焼いて食べたり あるいは農家の倉庫に行って、芋とかを盗んで食べたり、もううんと悪さをしました 山が高くて水も豊富だから 水車で精米するんです。 だいたい何時間で(米を)つけるかわかりますから 水車の主は その前に行って半つきのところを(盗んで) 軍服の配給があったんです、大きいぶかぶかの軍服、それを足首でくびって 袋になっているもんですから、米もこっちに入れて ぶかぶかですから、何が入っているか、外からわからないわけです。目立たないわけです それで教室に帰ってきて、ふうふうして籾を飛ばして 食べることだったらなんでもしました。悪いという気持ちはなかったです 学童疎開 食料調達 柿を取ってきたり。空襲警報がかかったら一番嬉しかったです 学校から自由に出られますから、山に逃げるんです 山行ったら栗とかしいたけ、しいたけの産地だったから、北郷は 生しいたけをみんな取ってきて、学校のチリ焼き場で焼くんですよ (しいたけは)においはすごいんですよ。すぐ先生にばれて 手が真っ黒くなるまで鞭で叩かれて それでも、ひもじさとは戦えませんから、泥棒やったんです 学童疎開 腹いっぱい (地元の)友達から「家に来ないか」行ったら、何か手伝いさせられるんです 食事が目的ですから、腹いっぱい、ご飯あるわけです。ここまで入れて お櫃を食台に持ってくるんです。自分で(ご飯を)入れるもんですから (ご飯を)こっちまで詰めて、その苦しさなんともいえません 指入れても出せないんです。「明日からもう絶対食べない」と思うんですけど そのこと忘れて、また行ったら、ここまで詰めてくるんです 学童疎開 火鉢 (宿舎の)真ん中に、大きい火鉢があったんです しかし、高等科1年、高等科2年が、火鉢の周囲を陣取って 下っ端の下級生はその後ろから、こうしているんです。ある時間になったら 上級生が。下級生に「お前ら早く寝ろ」って、先に寝たらふとんあったまるでしょ そこに冷たい足を突っ込んで。意地悪ですけど 学童疎開 初めての雪 (雪は)1回だけ降ったんです。それが2時3時頃、夜中だったんです 誰かがトイレ行くために起きたらみんな真っ白ですよ。みんな起こして 「みんな、真っ白くなってる、遠くまで見えるよ」 みんな、運動場に飛び出して行って、いろんな雪遊びしたんですけど 大雪が降ったのは。積もった雪を見たのは、これだけ 学童疎開 いじめ うんといじめられました。初めは 授業の最中にですよ、橋本という先生だったんですが その先生が「沖縄は南方に近くて四季の変化がなく、一般的に頭ぼけ」と言ったんです それから「沖縄ぼけ」して生徒間の喧嘩の始まりになったんです 「沖縄ぼけ」と言われて。しかし、学校には同級生が8名いましたから (地元の子は)登校は、集落ごとに来ますから、一人二人しか入ってこないです だから校門で待って、みんな叩いて 掃除のホウキで、叩いて、(地元の子は)入って来れないです、それを先生が 窓からこうして見て、(教室に)座っているのは沖縄の子ばかりですから なんでって先生びっくりしているんです。こうこうで喧嘩しましたって(説明して) 学童疎開 泣いた先生 この先生がぽろぽろ涙を流して、19歳の若い代用教員ですよ、今村って先生 ぽろぽろ涙流して「沖縄は戦争の犠牲になって」 「玉砕するかどうかもわからんのに、あんたがたは親元離れて苦労しているのに」 「それ(沖縄の子)をいじめるか」って怒ったんです。それ以来、喧嘩しなくなって 仲良くなったんです。今村先生のお陰で 学童疎開 沖縄玉砕 沖縄玉砕の噂が出たのは、どっから出たかは定かではないです。覚えてないです ただ、沖縄何もないってよ、全部木も草も何もないってよという話だったんです 学童疎開 手紙 (しかし)あっちこっちから、また親からも手紙がきたわけです とにかく、あの感激は、今でも覚えてます。ああ、元気だったのか なんで玉砕、草木も何もない焼け野原といった噂だったんだろうと 子ども心にそれはありました。へー、元気だったのか 嘘のような、信じられない話だったんです、姉から聞いた時は (手紙は)一番真先に来たんじゃないですか、帰る半年くらい前じゃないですか 帰沖 妹、弟が宮崎に疎開していると聞いた,復員した兵隊が、子ども達を引き取って行きました それで、沖縄に帰る時は(学童疎開団の人数は)だいぶ少なくなっていました (着いたのは)中部の 久場崎です。疎開者はほとんどあっちに行ったと思います (久場崎で)頭から着物あけて、パンツまでも、全部DDTでやられました 頭から下までみんな(消毒) 姉のけが・祖父の死 (沖縄戦で)怪我したのは、姉一人です 姉は、こっちとこっち、えぐられていました 防空壕の前に出て、髪をすいたら、ちょうど艦砲の破片がこっちをかすって 左手、こっちえぐられて、手がこんなになってました 祖父は山原で老衰で亡くなってます 伊良波収容所 墓標 私が来て間もない頃は、墓標がみんな立っているから、伊良波収容所で亡くなった人が 自分の家族を埋めたものだから、墓標が立っているんです 「ニシヌモー」「ヘーヌモー」 真ん中は、いちばん高い所は「タカムイ」ってあったんです 「タカムイ」の裾だったんです。 次世代へ (戦争の話を)聞かれた時は「どうだったよ」「こうだったよ」と言いますが 夢中になって聞こうとはしません。今の子どもたちは どういう言葉で表現すればいいんでしょうか。とにかく昔の言い方だと 「チュイシージー」手を取り合って、みんなが協力して、という表現ですが 今はそれが「ナーハイバイ」で 自分さえ食べればいい、自分さえ良ければいい 自分さえ金持ちであればいい もっと、なんと言いますか、寛大な気持ちで 欲を持たずにやっていくべきじゃないかと思います 収録日:2018年(平成30年)10月6日 |
