伊良波 大城 シゲ(村内避難)_1_全文

ID1170111
作者大城 シゲ
作者備考出身地「伊良波」、1927年(昭和2年)生、当時17歳
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目村内避難
資料名(別名)伊良波_大城 シゲ_「17歳の大城シゲさん。子どもの頃の思い出は、子守りの合間の石ナーグー。おもちゃを買ってもらったユッカヌヒー。米軍上陸後、サバキナ壕へ避難。艦砲におびえ戦場を逃げ惑うのです。」_1_全文
キーワード村内避難、10.10空襲(十・十空襲)
総体1語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶_映像資料
総体2
総体3
出典1語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc2、YouTube @TGDA_okinawa
出典1リンクhttps://youtu.be/MQK4HXhutYg?feature=shared
出典2
出典2リンク
出典3
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国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
伊良波
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)1940年代
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)昭和10年代~昭和20年代
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010604文化行政
収納分類4語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶
資料内容戦前の伊良波
その頃(戦前)の伊良波は、ほとんど野菜じゃないかね キビはそんなにない
集落内に田んぼは無い
糸満街道の下のほう、与根に行くところはみんな田んぼ
伊良波はこれがいっぱいあったはず、金持ちが
畑、自分の畑じゃない。人のもの、小作と言って人のものを借りるわけお金出して
こんな感じよ、自分の畑なかったよ
ちょっと与根の集落の近くにあったけど、これもなくなったはず。分からん

綱作り
今、伊良波の集落にカシチーといって綱引きがある
ずっと前から伊良波に(綱引きが)ある
綱引きは、旧暦の6月25日、毎年やっている
私たちの時代の6年生は、カシラグヮー と言って下級生に命令するわけ
「藁、取って来なさい」と言って、田んぼで稲刈っているから
稲刈りしているから、藁、取ってきなさいと指導される、上級生の男の人たちに
それで田んぼにとりに行って、これで綱引きの綱を作る

子守りと遊び
私が小学校時代の話。私は子守りをした
その頃、私は7歳で1年生になったかね
(手伝いは)子守りしかやってないはず
オンブして
子守りしながら、たぶん座って、木の木陰で遊んだはず。それは覚えている
私は友達が多いから、ゴム段したり、石集めてやる
(石集め)石取り。石ナーグー

ユッカヌヒ―
糸満の
ユッカヌヒーといったら今の糸満ハーレーの日でしょ
父が朝8時半頃、ウガンバレーは9時から始まるから、早く行こうとして
朝早く起こされて弁当作って、おにぎり作って、一緒に行った
何買ったかね。だるま、あんなのだったはず。ウッチンクブサー(起き上がりこぼし)といって
糸満の海のそばで、サバニが売っていたのは覚えている
(父に)買ってもらった
帰りは客馬車という馬車に乗って帰った

野菜売り
私は言いにくいけど12歳の時に、ウンチェーバー(エンサイ)を作って
(エンサイ)担いで、糸満に売りに行ったことを覚えている
(格好は)着物だったはず。帯しめて、草履履いて糸満まで
こうやって担いで、売りに行ったことを覚えている
(いつ頃)12歳ぐらいかね
それでね、恥ずかしかった。これは忘れられない。

豊見城第二尋常高等小学校
(学校の名前)豊見城第二尋常高等小学校
(伊良波の)私の同級生は
男2人、女2人。いとこがいたから、隣に
集落には3・4名かな。男2人女2人。小学校からこれぐらい

教科書
私の時代は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」(教科書)これだけでしょう

訓  練
学校の先生が教えたのは竹やり訓練
防空頭巾被ってバケツに水入れて渡す。こんなの習った
火事の時はバケツの水で消しなさいと、させられた
(消火訓練は)小学3年だと思う
竹やり訓練は、5年生か6年生

奉仕作業
私は6年生、13歳で卒業、14・15歳から、少年少女といって
集落で認められて、奉仕作業をやった
集落の奉仕作業
昔は茅葺の家があった
14・15から奉仕作業、山に行って、茅を取りに行った。家を作るために

青年学校と壕掘り
(小学校卒業後)青年学校に行った。今、役所作っているところ(宜保)に
主に防空壕の穴掘り、学校の授業で習ってない
イモの入ったおにぎり1個もらうために、奉仕作業に行った
家に食べるものないから
兵隊と防空壕の穴掘りしかしていないから
行ってないはずよ、青年学校には
私たちの頃から、15・16からは、青年学校で習っていない
16歳には、防空壕の穴掘り、カゴ持ってやった
17歳からは、本当に戦争になっていた、これは覚えている

日本軍の炊事場
日本兵は、あの頃は山で防空壕の穴を掘ってたかね
伊良波の山の上には球部隊。西側の、座安の近く、あそこには山部隊がいた
伊良波の西側、産婆さんの家が炊事場だった
伊良波の産婆さんという、おばあさんがいた
この方の瓦葺き家は今もある。上等な家に集って、ご飯を作っていたはず

与根飛行場
いつ来たかね。今の伊良波の公民館があるでしょう、あそこに
小さい宿舎があって、14・15の少年兵、防衛隊がいた
あの防衛隊の子どもたちは
与根からまっすぐ翁長に続く、滑走路があった
滑走路を偽装するために、各家庭にガジュマルの葉っぱ、木の葉っぱを取りにきた
葉っぱで滑走路を隠すために
アメリカの飛行機が来ても分からないように、偽装した
とても大きな屋敷で、ガジュマルの葉がいっぱいあった
これを取りに来た、小さい少年兵が

トロッコ
伊良波の集落には球部隊
伊良波の山の上に今もあるのかわからないが、こっちにいた球部隊が
レール(トロッコ)引張って運ぶ
レール(トロッコ)引っ張って、土を運ぶのを覚えている
ガラガラ音する、それは覚えている

差し入れ
兵隊は夜になったら、ひもじい思いして
「腹減った、減った」って、可哀想と思い、おにぎり持って行き、食べさせた
自分の息子たちも兵隊に行って、こんなひもじい思いするかもしれないと言って
大きい鍋にジューシーメー作って、おにぎり作って持って行った
親子で、それは忘れられない。自分の親と一緒に

爆  弾
10.10空襲(十・十空襲)が終わって家も無事にあるから
その頃はまだ家にいて
なんだったか、臼(ウス)、米があるから臼で突いていたら、こっちに
たぶん自分の家の近くに爆弾が落ちた
すると、上から土がホロホロ落ちてくる
「あら、ここに、爆弾が落ちたよ」というのは覚えている
家の隣に大きい溝があって、こっちに落ちたはず
立っていたら上から土がホロホロ落ちてくる
「あら、ここに、爆弾が落ちたよ」こんな話をした

サバキナ壕
(サバキナ壕)いつ行ったかな。覚えていない
ただ艦砲射撃激しくなったら、壕に逃げた、こんな感じ
飲み水無いから、近くに大きいカーラ(川)
大きいのが、カーラがあったわけ、こっちに水汲みに行こうとしたら
行く途中に爆弾が落ちて2人亡くなった、近くの人が
そのあとから怖くて、ここに行かなかった
それからあちこち逃げ回って
うちの畑の隣に大きい爆弾が落ちて穴が空いた
歩きながら、この人たちは、防空壕に行く手前で爆弾にやられた
艦砲射撃激しいから、ずっと防空壕に入っていた
何日入っていたのか、分からない。艦砲射撃が激しいから

平良グスクの壕
ここに住めないから、平良グスクの避難壕に逃げた
イモ炊いて、夕方からまた山登りした
その後は移動しなかった。そして帰ったかね
あそこに行くのは難儀。しょっちゅう歩いていくのは

長男兄さん
長男兄さんは海軍だった、それでニシ兼城という集落、あの辺から
兄は班長だから、担架に兵隊さん乗せて来るわけ、防空壕の前に寝かせて
「兵隊さんよ、水飲ませて」という言葉、聞いているけど、顔も見ない
どこ怪我しているか、これも分からない、長男兄さんが
「こっちにいたら、家族全員で怒られるから、行こうね」と言って別れて行って
これが悔しい今でも。どこで亡くなっているか分からない
着替えて、一緒だったら助かったというこの思いが
どこで亡くなったか分からない

翁長へ
翁長に行ったのは、あれは戦争でアメリカの兵隊が
マイクでしているから、私たちは行く所ない
今度は家族で「南へ逃げよう」
「南に逃げたら、命が助かるはずよ」と言って行ったわけ
行った所が、20名の家族が、護岸から
護岸から23名ぐらいかね。大家族がみんな壕から出て、あそこへ行ったら

瀬長島沖の艦隊
機銃掃射、瀬長島のたくさんの船から撃って来たのかねと思う
瀬長島は、海の色も見えないくらい船がいっぱい。夜になったら大変
灯りがついて、那覇まつりみたいに、凄かった

日本兵
また東のほうから、機銃掃射がくるから
あそこに行ったら大変なると思って、今度は田んぼに入って
田んぼに稲はなくて、ムシロ作るイグサを作っているもんだから
ポトンポトンして歩いたら、こっちに日本の兵隊が銃構えて来る
こうやって。「兵隊さん味方でしょ」って
翁長の下の田んぼだと思うけど、はっきり分からない
怖くてよ。「兵隊さん味方でしょう」と言ったら
「早く帰らんと夜が明けるよ、やられるよ」と言った言葉は忘れられない、今も覚えている

サバキナ壕
みんなちりちりバラバラなって、親子3名手を繋いで、逃げ回って
(壕に)戻ってきた
追われて、逃げるところがない。それでまた壕に入ろうとしたら
行ったり来たり、1日中キビ畑の中に入って泣いて
その夜家族が集まった、伊良波の自分たちの壕の前で。
集ってこれからどこ行くか相談した。その翌日、捕虜なった

捕虜
アメリカ兵たちが、小さいチーズ
チーズ持ってきて、開けて自分で食べて、なんでもないから、ひもじいでしょう
「なんでもないから、ひもじいでしょう、食べなさい」って
食べてと言って、手招きして、食べさせた
私は化粧品も貰った。「若いからこれ使って」って化粧品渡された
このアメリカ兵はどこから持ってきたか分からない

古知屋開墾
古知屋開墾には2・3カ月いた
家はみんな、竹みたいな家じゃなかったかな。はっきり分からない
自分で竹取ってきて編んで。これで山の葉っぱ取ってきて干した
夜なったらこれ敷いて、こんなの被って寝た
今のカシガー(敷物)、こんな感じ

イモの苗
山原は、何もないところ
イモのカンダバー(葉)を植えてもイモがつかなかった。こんな感じ、山原は
カズラ植えても、イモ作れなかった

食糧事情
配給と言ったって、トウモロコシ手のひらのこれだけ。何もなかった
古知屋開墾に行って、ひもじい思いしたのは、何もなくて
トウモロコシの配給がたったこれだけ、それに水入れて、親も2人いるから
自分は食べないで、親たち2人にあげた。自分は食べなかった
竹の作業やっておにぎり1個ずつもらう。これも親、2人にあげて
自分はそんなに食べなかった。これも忘れられない

帰村後の暮らし
山原から戻る時は18ぐらいじゃないかね
伊良波に戻ったけど、自分の家は無いから、間借りしていた
1カ年ほど自分の家がなかった。そのあと家造った
1年ぐらいかな
屋号、東松川。そこに間借りして住んでいた
それから自分の家を作った。自分の家はみんな壊されてない

戦争体験を語ること
孫たちはいっぱいいるけれど、戦争の話はしたことない、孫たちも分からないはず
私は話したことがない
キビ畑があって、ここで1日中泣いた。これは忘れられない
こんなこと話したことないから分からないはず

明日
今日はね、明日のことが気にしている
明日はね、おじいのお祝いがあるから、買い物があるから、嫁さんたちに相談してある

収録日:2018年(平成30年)10月6日

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