与根 安谷屋 タケ(南部避難)_1_全文
| ID | 1170101 |
|---|---|
| 作者 | 安谷屋 タケ |
| 作者備考 | 出身地「与根」、1929年(昭和4年)生、当時15歳(高等科1年) |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 南部避難 |
| 資料名(別名) | 与根_安谷屋 タケ_「15歳の安谷屋タケさん。米軍上陸後、母と二人で南部に避難します。激しい砲弾の中、娘を守る母。親子で決めた約束とは…」_1_全文 |
| キーワード | 南部避難、10.10空襲(十・十空襲)、伊良波収容所 |
| 総体1 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶_映像資料 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc2、YouTube @TGDA_okinawa |
| 出典1リンク | https://youtu.be/BBMheCvPX_E?feature=shared |
| 出典2 | |
| 出典2リンク | |
| 出典3 | |
| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 与根 |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
| 年月日(始) | |
| 年月日(終) | |
| 年代(西暦) | 1940年代 |
| 年月日(和暦)(終) | |
| 年月日(和暦)(始) | |
| 年代(和暦) | 昭和10年代~昭和20年代 |
| 始期(年・西暦) | |
| 始期(年・和暦) | |
| 始期(月) | |
| 始期(日) | |
| 終期(年・西暦) | |
| 終期(年・和暦) | |
| 終期(月) | |
| 終期(日) | |
| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010604文化行政 |
| 収納分類4 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶 |
| 資料内容 | 戦前の与根 漁業もあった網で魚を捕る (塩作りは)地元の人じゃない(那覇市)泊の人が多かった 今のゴルフ場(旧豊見城カントリー倶楽部)全部塩田だった 農業もあった 遊 び 海で泳いだいつも海で遊んだ (当時は)白い砂浜きれいでした 父 (仕事は)農業 父は病弱であまり働けない母が一人で稼いだ 母 母は働き者夜昼働いた戦争前は 父が何もできないから働きっぱなし (母の仕事)泊の人が作った塩を卸して、頭にのせて、豊見城で売った 他に畑仕事イモを作って余った分は売って頑張っていた 豊見城第二国民学校 座安小学校 (後に名が変わり)豊見城第二国民学校 校歌で(歌詞に)座安千余人と歌って 千人余りと歌詞に書いてあった (与根の)同級生は男女で10名かな (通学時間は)毎日、同じ時間かな 隣の子どもたちを呼んで みんな集まって一緒に(学校へ)行った 今は歩いて行けないぐらい遠い (学校に奉安殿が)ありました天長節とかの時には (奉安殿を)開いて、運動場で。? ?今の座安小学校の高台ガジュマルのところに(奉安殿はあった) 与根の日本軍 今の珠数森で壕を掘っていた兵隊がいた 武部隊といって北海道の方だったかな お母さん達は(日本兵に)豆腐の湯とか作って持っていった (日本兵が駐屯していたのは)公民館 防空壕壕(防空壕)を掘ったけど砂が落ちて掘っても掘っても砂で埋まって 絶対掘れなかった、与根は 10.10空襲(十・十空襲) ?訓練と思って木に登って見たみんな騒いだが驚かなかった 自分たちで逃げたので、(空襲の)連絡はなかったです 与根の空襲 空港に落とす爆弾が。瀬長島から日本軍が弾を撃った 高射砲を撃ったが与根の上からみんな落としていった この日を境に与根の住民は逃げ出した 空襲の犠牲者 (空襲で亡くなった方)1軒あります家の壕にいたそうです 爆弾が落ちて爆風で 同級生も1人いたがケガはない爆風でやられたみたい飛ばされていた (亡くなった同級生は)島袋キクさんだった (アメリカ軍が)やがて上陸した 南部避難 逃げました 父は病弱で歩けないから (父)「私は死ぬなら自分の家で死ぬ絶対行かない」って 避難しようと言っても絶対行かない 母と2人で(糸満市)武富に知り合いがいたので武富に避難しました 武富は、人の家ではなく壕 武富の裏に岩山があって、上等な穴があった 武富の壕 (与根と武富を)行ったり来たりした 食べ物は母が運んできた 武富では、イモ食べなさいって勧めるけど母は遠慮深くて 夕方イモを取りに自分の畑に行った昼は出られませんから 夕方5時6時からイモ掘りに行った (母は)相当苦労しましたよ (壕から)私を絶対出さなかった。 みんな母が自分で。外に出るなよって言って (戦時中一番怖かったこと)壕にいる時弾が来るのが一番怖くて 昼は全然動けなかったそれが一番大変 避難民 南部の人は南部から米軍が上陸するってこっちに来る私たちは南部に 少しでも生きようと南部の端に行く あっちはこっちに来る。大変 アメリカ軍が上陸すると聞いて生き延びようと(壕を出て)喜屋武福地の集落に 避難路 (避難路は)今の武富から南部のひめゆりの塔に行く大きい道 あっちを通って福地まで歩いて 昼は歩けない昼は隠れて夜歩いて 喜屋武・福地に逃げた ガジュマルの下 茅葺の大きい家だった (この家の)ガジュマルの下に、石垣を積んで親子で 夜、石を集めて、こっちで二人 毛布1枚で (食事は)母が全部夜でみんな炊いて おにぎり作ったりして、イモ炊いたりして 家の方が「味噌もみんな使いなさい」と言っていた 「私達には防空壕が、上等な壕あるから。みんな持っていくから」 「残りは使いなさい」って 人の家のガジュマルの根っこにいたんですよ。親子で 壕には行けなかった (爆弾が)落ちたけど枝に落ちて、なにも怪我しなかった 木の根元はなにもなかった。外にいる人に当たった 私たちと交代してあの家に入った人たちに当たっていた 最後はぺチャンコになっていた家もだからあっちの中にもいたはずよ 水汲みと約束 水汲みに出て1時間ぐらい帰ってこないと探しにおいでよと(母が)言った 倒れているかもしれないから1時間は待って帰ってこないと 倒れているかもしれない弾に当たっているかもしれないから探しにおいで これだけは毎日やった水汲みに出る時に もし倒れていたらきれいにしてよと(母)が教えた 運べないからそのまま何か被せてきれいにしなさい 母と約束した水汲みに出るたびに 水汲みに行っても心配だった (水汲みの時間は)40分ぐらいあまり遠くではなかった この40分が大変だった時計は無いけど勘で いつ帰るかなって首を長くしていた 母のおかげ 捕虜されるまではどこにもいかない 捕虜 アメリカ兵が2・3名で、中城が一番捕虜が多かったらしい 中城の方(日系米軍人)が通訳みたいで「でなさいでなさい」って大きい声で叫んでいました 「あれはアメリカ人じゃない日本人だから」母が何でもないよ出ようって。 「何でもないですよ出てこい出てこい」するものだから、出ましたよ (他に避難民は)いました。私たちはガジュマルの下にいたけど まだこの家の中に人がいました みんな出てきましたもう怖くて出なかったんですはじめは 日本語が聞こえたからなんでもないよ行こう私たち親子は出ていきました アメリカ兵 (アメリカ兵は)怖かった二度と見たくない 大きいし目は青いし汗びっしょりして まともに見れなかった 20歳ぐらいの女性は顔にみんな泥を塗って出てきた 日本兵が捕虜になったら若い女性はみんな引っ張られると言っていた みんな怖がって泥だらけで壕から出てきた 私は子どもだからしなかったけど、20歳以上はみんな泥だらけ 負傷者と死体 ケガ人はみんなアメリカ兵が車に乗せていた生きている人は 死体はそのまま 伊良波収容所 福地で集められて伊良波に収容所ってありました テントでみんなここに集まって トラックに乗ってみんな泣いてそのまま海に投げ込むって思った 着いたら伊良波だった 伊良波に収容所があってそっちに 野嵩収容所 (次に移った場所は)野嵩。宜野湾かな。野嵩という集落に あちこちから寄り集まって野嵩には家がありました各家庭に何戸って 野嵩収容所はあまり長いこといないそれから山原に 古知屋収容所 古知屋の古知屋開墾といって山の奥だった 伐採した跡にテントを張って豊見城は豊見城村ごとに 配給所のいとこ 配給所でお米をちょっとずつ 私たちは、よそよりはちょっと良かった いとこが配給所で米を計る係りだからちょっと多めに これだけは内緒だけど、ちょっと人よりは 食糧不足 古知屋の畑に行って芋の葉っぱを取ったら集落の人が泥棒と言った 避難民はみんな泥棒南部の人は泥棒って言われてこのあと取れなかった あとは山に行ってフキ(ツワブキ)を採りに行った 豊見城に帰村 (母と)帰ってきたらお家は出来ていました前もってみんな あの時から茅葺家みんなで作って若い人たちが茅葺家を作っていた この家庭はこっち配給みたいに家が決められた 行方知らずの父 わかる人がいないみんな逃げているでしょう あとのことはみんな知らない (父は)全然わからない 見た人がいないでしょう 兄帰る (兄が)与根に帰るまではいるかいないか全然わからない 兄もまた一人もいないと聞いたって 与根は一人もいないって話を聞いたものだから まさか生きているとは思わなかったらしい (兄は)あれからはずっと与根にいます 次世代へ これから二度とこんな戦争が無いようにみんな頑張ってください 戦争はもう怖い 子どもたちも 健康で過ごす お願いします 収録日:2017年(平成29年)12月12日 |
