瀬長 比嘉 亀次(山原疎開(大宜味村田嘉里))_1_全文
| ID | 1170091 |
|---|---|
| 作者 | 比嘉 亀次 |
| 作者備考 | 出身地「瀬長」、1931年(昭和6年)生、当時13歳(高等科2年) |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 山原疎開(大宜味村田嘉里) |
| 資料名(別名) | 瀬長_比嘉 亀次_「13歳の比嘉亀次さん。海を渡っての通学。白い砂浜が美しい瀬長島で少年時代を過ごします。米軍が迫る中、山原疎開。飢えを救ってくれたものとは…」_1_全文 |
| キーワード | 山原疎開(大宜味村田嘉里)、10.10空襲(十・十空襲) |
| 総体1 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶_映像資料 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc1、YouTube @TGDA_okinawa |
| 出典1リンク | https://youtu.be/VbQybcHk6cw?feature=shared |
| 出典2 | |
| 出典2リンク | |
| 出典3 | |
| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 瀬長 |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
| 年月日(始) | |
| 年月日(終) | |
| 年代(西暦) | 1940年代 |
| 年月日(和暦)(終) | |
| 年月日(和暦)(始) | |
| 年代(和暦) | 昭和10年代~昭和20年代 |
| 始期(年・西暦) | |
| 始期(年・和暦) | |
| 始期(月) | |
| 始期(日) | |
| 終期(年・西暦) | |
| 終期(年・和暦) | |
| 終期(月) | |
| 終期(日) | |
| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010604文化行政 |
| 収納分類4 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶 |
| 資料内容 | 戦前の瀬長島 戦前は不便なことは不便だったが、楽しくていい島でしたよ 田頭の渡る所は、今は深くて水浸しだが、大潮の場合は畑のようだった 瀬長島の高台と一本松 今、御嶽のところで、ずっと下のほうだが、松が、岩の上にあったんですよ ずっと東から西まで。高かったです、山が。糸満から全部見通せました。山の上に上ったら 今のホテルの上に上って見るみたいに、見えましたよ 一本松の上で、おじいさんが息子が出征するのを一緒に船が出るのを見送り、万歳したこともある 有名な一本松だった。(樹齢)100年ぐらいなっていた。 (一本松が)敵の艦砲射撃の目標になるみたいで 日本軍が切っていました 海遊び 小学校5年生からは海に遊びに行く (親に)海に行くと言わないで行くが、安心しておるんですよ 海の状態はだいたいは小さい時から知っているから。 モリを作って潜り、大潮の場合、泳げるぐらいの時間に、引き潮の時に(沖に)行って 満ち潮になったら、満ち潮に応じて、浜まで着くように 潮を追って、帰ってきました 海の通学路 学校は、大潮の場合、朝は船から銘々で、最初は4・5名ぐらい乗せて渡りよったが 中潮は、このぐらい膝までパンツ上げたら(歩いて)渡れよったですよ 小潮は、北と南と島をただ繋ぐぐらいしか潮が満たないから、いつでも渡れるし また学校から帰る時間はいつも潮ないですよ。1年生でも自分で来ることができましたから 1年生の時は上級生が、だいたい膝ぐらいの潮の場合は、おんぶして渡しよったんですよ 瀬長島の日本軍 海軍、岡村隊は、今のホテルのところに、飛行機目的に、いくつも機関銃台を据えていた また近江隊は陸戦隊で、海面砲台といって防空壕で大砲を据え付けて、北と南に 松本隊は高射砲3門か4門作って、飛行機に対して、バンバン撃っておりました 10.10空襲(十・十空襲) 10月の空襲は、学校に行こうと島から出る時に兵隊に「これは演習ではないよ」と言われて 集落で防空壕を掘ってあったんですよ。その防空壕に全員避難して10月10日は いや、集落は、集落の壕を作ったわけです 10月10日は、当間の兵舎、今の自衛隊の所、機関銃から高射砲から撃ってくるし 瀬長からも、一斉攻撃、両方で挟み撃ちに、なかなか米軍機には当たらない 集落立ち退き 立退きしなさいと言っても 出るのを嫌がって、ずるずるべったりにいて、3月の空襲でやられて、家が焼かれたから みんなばらばらに散っていったわけですよ 山原疎開 3月の5・6日頃、田頭に引っ越して1週間いて、すぐ3月の14・15日頃、山原に避難しました 瀬長は大宜味村田嘉里集落に避難できるようになっていました 4名家族です 山原疎開 出発 今の那覇のバスターミナルまで歩いて行って、そこから砂糖運搬する汽車があったんですよ キビを乗せるトロッコの中に、屋根がないのに、みんな乗って、嘉手納まで着いて 嘉手納から歩いて。60名ぐらい団体で行きましたから 60名一緒に、読谷の山田の学校に1泊して、それからまた歩いて、喜瀬の学校 それから羽地の小学校に、向こうから喜如嘉の小学校で1泊して、田嘉里に行ったんです 山原疎開 現地の様子 避難は集落のすぐ上のほうの川の横に、避難小屋、向こうの地域の人々が作ってあったんですよ この避難小屋は、瀬長と那覇の人もいたらしいですが、いくつも作ってありました 山原疎開 空襲被害 1回は爆弾、1カ所に落ちて、4・5名は亡くなったが、その他は何もないです 爆弾が落ちて、避難小屋の後ろに落ちたそうで、私は見てないが 土を被って4・5名ぐらい、1人は私の3年かな、担任の先生だったが、妊娠していたらしい それと姪っ子、おばあさん、4・5名ぐらい亡くなっているはず 山原疎開 山へ避難 (米軍が)上陸してから、ずっと山の中に入っていた 食糧は(米軍が)上陸したといって、翌日から3カ月分の食糧を配給してあった。米 1カ月くらいは、おつゆなんかは作って食べたんですが その後は、塩も何もないから芋を掘ってきて、夜は。芋にフーチバーよ フーチバーを入れて混ぜて野菜も食べないといけないからといって 6月頃かな 小満芒種(梅雨)、向こうで山のずっと、奥のほうにいたから 捕虜 (山を下りたのは)7、8月頃じゃないかな 捕虜と言っても、すぐ集落に「下りて来なさい」というふうになって 田嘉里集落の上の山から下りて、分教場とか、農会の倉庫にみんな入っていたが 向こうの集落が避難小屋、避難民の茅葺を作ったので、そこに移って 私達は、向こうの家主と一緒に半分半分、長屋、茅家に住んでいました。4・5家族ぐらい 収容所生活 食料 無償配給で、配給あったんですが、これがトウモロコシだけの場合もあるし 米も少しだから、ソテツを切って干して、腐らして、また干して、炊いて食べよったです。 戦後 瀬長島の様子 瀬長島の集落は、米軍のアスファルト工場になっていた。飛行場、滑走路なんか作るために 瀬長島は、(集落を)全部壊してありましたよ 瀬長島集落再建の道のり (島へ帰れないこと)戦争というのが頭にあるもんだから。贅沢は考えない どこかに家を作って、集落を作るという考えしかないものだから (アメリカ)軍の戦闘部隊の帰った後の兵舎を壊して、村が軍から許可を受けて崩して この材料を集落で全部取って、配給して、銘々自分の家を、小さい茅葺家を作りました。 25カ年ぐらい向こうで暮らして、護岸のそばで それから台風と高波で流されて、全部家も壊れてから、舟無小原の今の集落に引っ越したわけ ここは舟無小原といって畑ですよ。もう半分は瀬長の人のものだが 村に整地してもらって、最初、村の青年会が、区切りして作ったわけです 戦後の暮らし 父は(昭和)12年の日中戦争の始まった年に、フィリピン行きましたよ (父は)戦後(フィリピンから)帰ってきて、1カ年ちょっとして亡くなりました 私が戸主みたいになって、母の体が弱かったもんだから イモ植えて、稲、田んぼ耕したりして、17(歳)から軍作業出たんですよ 次世代へ 戦争は大変だと口では言っても、体験しない人には分からんでしょうね 正月とか集まる時には、たまには話もやりますが、だいたいは知っていますよ 食料でも、うちの子どもたちに話すが、ソテツ、あれを削って食べたもんだから… 収録日:2017年(平成29年)12月6日 |
