名嘉地 上原 テル子(南部避難)_1_全文

ID1170081
作者上原 テル子
作者備考出身地「名嘉地」、1935年(昭和10年)生、当時9歳(小学校3年)
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)名嘉地_上原 テル子_「9歳の上原テル子さん。米軍が迫る中、防空壕を脱出、家族親戚と南部避難。激しい米軍の攻撃に、家に戻る決断をします。暗闇の避難、運命の分かれ道とは…」_1_全文
キーワード南部避難、10.10空襲(十・十空襲)
総体1語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶_映像資料
総体2
総体3
出典1語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc1、YouTube @TGDA_okinawa
出典1リンクhttps://youtu.be/1OL4Bf9GOag?feature=shared
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
名嘉地
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)1940年代
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)昭和10年代~昭和20年代
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010604文化行政
収納分類4語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶
資料内容戦前の名嘉地
ありましたよ、綱引きも。集落でも。藁で編んで、綱引きをやりました
藁は、みんな銘々の家から集めて。その頃は田んぼが多いからコメを作って。今はみんな畑ですけど

豊見城第二国民学校
学校は座安小学校、そうそう、国民学校
学校には、私は7つ上がりなので、いつも姉に連れられて行った覚えがあります
その頃、私はとってもナチブサー。泣き虫
姉が「8歳から(学校)出せば良かったのに」って。お姉さんの世話になりました。
1年生の時には今の(給食の)ように食事が出て、私は痩せていたので
みんなには出ない。クラスから5、6名ぐらいは、ちょっと食事がありました。たまに

10.10空襲(十・十空襲)以後
10月10日の空襲あとからは
少しは学校に行ったけど、戦争が始まって
9歳、3年でしょう。その時からはもう
学校も行きたくないです。弾もパラパラ落ちるので、学校は毎日は行っていないです。

徴兵 長男兄と次男兄
お兄さんは、長男は22、23歳に兵隊にとられて、また次男が21歳かな
そのぐらいに、20歳か21歳ぐらいで兵隊にとられて

字の日本軍
(名嘉地の日本兵は)全部で100名ぐらい。3か所にいたので。
下越地も大きな家、大屋も大きな家だから、向こうと…
私の家はあまり大きくないので、軍曹と(兵隊)5、6名ぐらい。
話したことはよくある。だから、兄たちはこの兵隊さんに教えられて
兵隊に行った時のことをいろいろと教えられて兵隊に出たんですよ

日本兵との交流
これだけは言いましょう。あのね
どんな歌か、昔の歌ははっきり覚えていないけど、私、言いたくないけど
兵隊さんが言ってたから、これだけ覚えている
「花よりきれいなテル子さん」って、これだけは覚えています
言いたくないんですけど

避難壕
隣の大屋の壕と、私たちの壕と、隣近所
またそばには、次男南ヌ大屋って、壕が3・4か所ぐらい、並んでありました

家族の避難生活
私たちの壕は、お父さん、お母さん、みんな兄弟。また与根からも兄弟は来るし
また、上のお姉さんたちも一緒だから、15名ぐらい
(食事は)姉たちが、家に行って炊いて、こうして担いで(壕に)持ってくる
こうして1日に1、2回しか食べられない。ご飯も

シラミと爆弾
食事を運ぶ途中、上の姉が「かゆいから見てごらん」とシラミ捕りで立ち止まった
このちょっとした瞬間、パラパラ、木の下に爆弾が落ちて3名ぐらい亡くなった
お姉さん達は、もう少しで、ここに来る時間だったらしい
シラミのおかげで命が助かった

高安に避難
兵隊が「奥に逃げたほうがいい。ここはすぐ海だから」って
ここから(米軍)上陸と思ったんでしょう
「海だから、むこう奥のほうに逃げなさい」って
最初は高安に逃げたんですよ、親戚の家に。ここには2カ月ぐらい、たぶんいたでしょう
お姉さんたちも合わせて、20名ぐらい行きましたよ
お家。向こう(高安には)はお家がたくさんありましたよ
3ヶ月はいたかな、このぐらいですよ

高安から名嘉地の壕へ
食べる物も無いから、自分達の壕にまた戻ってきて、2カ月、壕にいました
それから(米軍の攻撃が)激しくなって、夜は弾がワーワーワーワーきて
照明弾が上がって、すぐその後からパーラナイ弾が来るんですよ
もうこっち(壕)にも住めないから、もうどうしようか

南部へ避難
みんなまた糸満の方に逃げて
最初は、国吉・真栄里ってあります。ここに避難して
(避難した)家には30名~40名ぐらいいた。
この家に1カ月ぐらい住んだ。
(家には)火傷を負った二人の兵隊がいた。
一軒家に私達も含めてみんなで40名ぐらいは住んでいた
兵隊がかわいそうでした。火傷をして、ウジも湧いて。これも覚えています
むこうは食べ物がないので、私達はすこしずつ食べ物をあげました。二人の兵隊に
それからこっちも住めないから、今度は喜屋武に行こうかって、みんなで話して
喜屋武に行こうかってだったんですけど

闇の中の避難路 長男兄の死
喜屋武には行かないで、自分の生まれジマに帰る
戦争は同じ。死ぬなら自分の生まれジマで死んだほうがいいって、父が言って
それで帰る途中、もう夜中です。糸満は、弾がビュービューって。
すこしでも音を出したら大変だから、みんな話さないで、真夜中に歩いて
その時、20名ぐらいの親戚は、この川から渡って
私たちはこうして東のほうに、また4、5名は西のほうに分かれて
西に行った方は、3名は元気でした。2人は亡くなりました
兄と母の甥っ子(私の従兄弟)が、その時に(亡くなった)。従兄弟は幼稚園生ほどの歳。
兄は、どこかわからないけど、ここを弾でやられて
(家で)治療して、兄も一緒に(国吉・真栄里に)逃げたんですけど
兄達が、どこで亡くなったのかわからない。従兄弟もいなくなるし、兄もいなくなるし
(兄達と離れた理由)なぜなら、夜は口を塞いで全然声を出してはいけないって言うから
たぶん、先に川を渡った人たちが向こうへ行ったはず、両方に分かれているから
私たちはちょっと遅れて行ったはず。それを覚えている

捕虜
(二手に別れた後)半時間か1時間ぐらい歩いて
歩いて渡って行ったから、こっちは収容所になっているんですよ、アメリカの
その時は、ワーワーみんな泣いて
私の甥っ子が、この子は頭が良いから
「アメリカーはダメ、アメリカーダメ」って、この子がガタガタして泣いて
私たちもみんな泣いて、こっちで一晩は過ごしました

船で収容所へ
夜が明けて、また今度は船に乗せられて
海の中に捨てられるって思っているんですよ、みんな
それでみんなワーワー泣いて
着いたところが喜舎場・仲順

喜舎場 仲順の収容所
その時はアメリカ軍から配給物って、食べ物少しずつはありました
その時に、後ろの山に隠れている日本兵が、夜はこの配給物を取りに来たんですよ

前原屋取の収容所 食料事情
この前原屋取の方々はとってもいい方でした
その時には、姉たちが向こうの畑の手伝いに行って、少しイモをもらって来て
私たちは配給を食べたり、配給物も、なんだったかはっきりは覚えてない
食べ物が無いから海に行って。シマにはなにもかもありますけど
向こうはあまり無いんですよ。木の葉をとって食べたり、また海に行って
パチパチって鳴る、玉みたいなものがついた海藻をみんなで獲って食べました
これは食べるもんじゃなかったはず。
食べたあとは、お腹壊して大変でしたよ。食べる物が無いから

前原屋取の収容所 学校
(学校には)帳面も無いし、鉛筆も無いし、なにも持ってないら、先生が山に行って
竹を取ってきて、鉛筆みたいにして、地面に書いた覚えがあります
豊見城に帰ってくるのは…向こうで1カ年ぐらいは、たぶんいたと思う

終戦後 名嘉地の様子
名嘉地は焼け野原。家は2・3か所、残っていたかな。みんな焼かれて
残っている家にみんなで住みましたよ。共同で
名嘉地はひどかった。爆弾が5つくらい落ちて、私達の屋敷には2つ落ちた。

家に落ちた爆弾の穴
穴を埋めて、家を建てたんですけど、1つはそのまま家の前に
これはイモを洗ったり、道具を洗ったりするところ、1か所は置いて
また野菜、ウンチェーあれは水にもいいから、このウンチェーを植えて
このウンチェーも少しとって売ったりしたことを覚えているんですよ。
これ(爆弾の穴)は残して、私達が嫁に行く前にもありましたから
子どもたちも、たまには来て泳ぎよったよ

次男兄の戦死
父と母は向こうへ、この戦争終わってから聞きに行きましたよ(次男兄の事)
事情を聴きに行ったり、次男がいた玉城に、向こうの方が「次男、わかるよ」
「とってもいい子でしたよ」って、向こうの方がそう話したらしい
それから首里に向かわされたって、向こうの方がお話なさっていたそうです
(次男兄が)首里で亡くなったのか、わからない。
戦争は、どこで亡くなったのかわからない。これが本当に悲しいです

次世代へ
本当に今の子どもたちは幸せ。昔の私たちのころは大変でした
もう二度と戦争は起こしてはならない。戦争は一番怖い
もう本当に、二度と起こさないように、皆さん、これを願います
みんな元気、健康であれしましょう
健康が一番だ

収録日:2017年(平成29年)12月25日

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