我那覇 瀬長 俊雄(中国)_1_全文
| ID | 1170071 |
|---|---|
| 作者 | 瀬長 俊雄 |
| 作者備考 | 出身地「我那覇」、1929年(昭和4年)生、当時15歳 |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 軍人・軍属 |
| 細項目 | 中国 |
| 資料名(別名) | 我那覇_瀬長 俊雄_「15歳の瀬長俊雄さん。小学校4年生の時に、移民先のフィリピンから沖縄に渡ります。初めてみた沖縄の衝撃、学校の軍事訓練、やがて海軍通信学校に進学。軍に入隊し中国へ。沖縄玉砕の知らせに本土に残る決意をしたのですが・・・」_1_全文 |
| キーワード | 軍へ入隊 中国へ(海軍上海陸戦隊)、移民(フィリピン) |
| 総体1 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶_映像資料 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc1、YouTube @TGDA_okinawa |
| 出典1リンク | https://youtu.be/vldO2TVAz6I?feature=shared |
| 出典2 | |
| 出典2リンク | |
| 出典3 | |
| 出典3リンク | |
| 国名 | 中国 |
| 都道府県名 | |
| 市町村 | |
| 字 | |
| 市町村2 | 豊見城市 |
| 字2 | 我那覇 |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
| 年月日(始) | |
| 年月日(終) | |
| 年代(西暦) | 1940年代 |
| 年月日(和暦)(終) | |
| 年月日(和暦)(始) | |
| 年代(和暦) | 昭和10年代~昭和20年代 |
| 始期(年・西暦) | |
| 始期(年・和暦) | |
| 始期(月) | |
| 始期(日) | |
| 終期(年・西暦) | |
| 終期(年・和暦) | |
| 終期(月) | |
| 終期(日) | |
| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010604文化行政 |
| 収納分類4 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶 |
| 資料内容 | フィリピン ミンダナオ島 私は移民の子どもです。親父たちがフィリピンに行っていて それで向こうで生まれました フィリピンのミンダナオ島です。当時の名は、アランブレと言ってました 父の仕事 麻を倒して、ひいて、マニラ麻にして梱包して、出すような仕事です (製品は)もう主にロープだったんでしょうね ワガン小学校 (日本人学校は)英語の先生がいて、日本と違ったのはそれだけ 英語があっただけで。英語の先生がフィリピン人かスペイン人かわからないけども 今考えるとスペイン式の英語だったじゃなかったかと思います と言うのは、例えばお父さんのことを「ファデル」と言っていた お母さんを「マーデル」と言っていたし、沖縄にきたら「ファーザー」「マーザー」と言うから あれ?ということがあったんですよ ある時、英語の先生が、戦前の洗濯石鹸は、こんな四角いものがあったんです 石鹸を持ってきて、英語の先生が切って、みんなにくれるんですよ、こうして そしてこれ食べれと言うんですよ。石鹸なにかなと思って、先生が食べるから これは何かと言ったら、チーズかな、バターかな。初めてそういうこと分かったわけよ 両親との別れ (沖縄へ戻る事)親たちはもう迷ったんでしょう。不景気であるし、子どももいっぱいいるし 沖縄からは帰ってこい、帰ってこいするし 出来れば子どもたちだけでも帰せというし 迷って、一応子どもたちでも送ろうかということ考えたんでしょう ダバオの港から出る時には、もう船は沖に泊まっているんです。 そこからポンポンダンチ(小船)に乗っていくんですが、たぶん父は、一緒にダンチ(小船)に乗って 本船まで行ったはず。母は大きな声で泣いていたけど 沖縄航路 ダバオを出て、ザンボンに着いて、セブに着いて、マニラに着いて それから台湾のキールンでようやく降りたんですが 今度また宮古でしょう、たぶん。あの時はどこか分からないけど、とにかく沖で停まって あの時初めて、宮古から変なカンプーつけたおばさんみたいな人が 見たことない人が乗ったもんだから 「あのおかあたちは、トイレ入る時もドアも閉めないで、すぐこうして座ってやるもんだから」 「あれ、ここ日本かな、怖いな、日本人変だな」と思って、見たこともないですよ、こんな人は 沖縄と親族 那覇港に着いたんですよ。いっぱい人がいて、そうしたらおじいさんが段傘持って 「トシオ、しっかり手をあげろ」と言ってるから、そういったことも聞いて分かるもんだから これは私のおじいだと思って、こうして(手を)あげたんです この人たちが 日本人だと 分かっていきますが、あの時 名嘉地の前でバス降りて歩くと 竹とガジュマルでこうして覆われた道で、泥道でこうして歩いていく 茅家、小さな二間ほどのマチヤグヮー(商店)があって 腰の曲がったおばぁが出てきて、これがおばあさんだよと言うから ああ、そうかと、ちょっとあいさつしたんですが そこで、おばぁたちが、こんな変な刺青していたので、ハジチを。真っ黒くしている カンプーもこうして。日本人はこんなもんかなと思って、フィリピンで見たことないから ああ、変なところへ来たなと思った、本当に 標準語励行 厄介なのが、標準語励行で、どこへ行っても「いつでもどこでも標準語」のポスターがある 標準語を学校で使いなさいと、使うけれども、結局ちょっとそばでは方言で使います 見られたら怒られるし、また方言札というのもあって、巡回させられるし いつでもどこでも標準語を使いなさいと言うけれども、標準語ばかり使うと、今度は 先輩達が「お前、頭の良い人のふりして」って暴力です。野蛮だと思った。 軍事教育 (学校は)昭和15年までは普通だったです。16年なってから太平洋戦争が始まってから 変わっていました。勉強は二番、体を鍛えることが一番といってです 将来は、大きくなったらどうせ軍隊に行かないといけないから お前たちはアジアの指導者にならないといけないから まず体を鍛えなさい、勉強はその次だと 勉強は、数学、算術はほとんどやってない。自分達は分数から分からない 軍事教育 戦場走路 上級生、高等科1年・2年生からは、学校の周囲に戦場走路といって いろんな障害物を作って、学校の周囲をこう走らすんです 運動場の端っこ渡って、土嚢をすぐ飛び越えて、それから端っこ通って いろんな鉄棒ある所を通って、1周してこうきて 今度は堀を作って、そこへ丸太1本通して、そこ(橋)をトントントン入ってきて終わり そんなことをさせた。きつかったです これが戦場走路と言って、兵隊さんは、どんな所かけめぐるか、分からないから こんな起伏の激しい所、子どもの時から教えたんでしょう。もちろん裸足ですよ 海軍通信学校 入試 受け持ちの先生は、11月になったから、受験の勉強のためにまず志願してみてごらん どうせ通らんはずだけど、受験の勉強のために受けてごらんと言って 担任の先生が願書を出して、11月1日2日、那覇の公会堂で学科試験と体力テスト 体格検査があったが、それに合格してしまったので、行かざるを得ないだろうと 家に帰ると、祖父母達は「長男が兵隊に行くのか、一人息子が兵隊に行くのか」と言って しかし、向こうからはハガキがきて 「5月25日防府海軍通信学校入校すべし」と通知がきたから これはしかたないと、みんなには、学校だよと言った 海軍通信学校 教官 カッター(手漕ぎボート)は、非常に重いです おもりつけて、一人で足につけて全体で漕ぎます とにかく全体をこうひかないといけない 同じ分隊で、1班、2班、3班競争したんです それで帰って食事準備して並べて、教班長食事ですよと一緒に食べようしたら 教班長すぐ、「お前たち今日のカッターなんだ」といってすぐ全部転ばしてしまって 「貴様ら、駄目だ、けしからん。みんな腕立て伏せ」と言って みんな腕立て伏せ、こうやって、「貴様ら、今日なんてことだ、今日は」 食事時間が終わるまで腕立て伏せやる。こうして。床ついたらバットで、後ろから打たれる もう、あの時に、えらい教員に当たったもんだなと思った その時から、棒倒しがあろうと何があろうと、負けたら大変だよって それからやったんです。あれが、非常に印象に残っている。 上海陸戦隊 自分は、通信隊だから 実際は、受信と送信の仕事しかやらないけれども 艦船だったら当直立って、非番だったら休みなんです しかし陸だから特に通信隊は、座ってばかりだから 暇な時は、運動しなさい、演習しなさい、ということで、陸では、遊ばさなかったんです 東京大空襲と通信障害 3月に東京大空襲あった後、たぶん被害受けたんでしょう。それからが 感度が悪くなったんです、非常に 感度が悪くて、受信できないと、字が抜けます。 暗号だと(字を)空けていると、どうして空けているのかと言われて 仕方ないから、何か字を入れたら、今度は全然暗号を訳せないとか言って、文句言うし 夜中のデモ放送 受信したら、「こちらはオーストラリア・メルボルンであります」って 「ただ今から日本人の皆様へ珊瑚海海戦の成果をお知らせ致します」って 日本語でちゃんと言うんですよ それで「珊瑚海海戦では日本側の戦果には敵方の艦船何々撃沈とかあるが」 「実際は日本の戦艦何々撃沈され、巡洋艦何々撃沈されている」って言うんですよ こうしてメルボルンから放送があったんです。「日本の皆様」と言って短波だけど 沖縄玉砕の報 そのうちに沖縄戦が始まる。どこどこ、なんとかと沖縄の地名も言うわけ これを聞いても本土の人は分からんけども、自分たちは分かるから それで沖縄はもう玉砕とか何とか言ったら、アキサミヨーナ みんな死んだのか、フィリピンもみんな死んだのか 終戦の日 「非番のものは全部中庭に集合、整列せよ」と命令下って 何か分からんけど、拡声器みたい、がやがや、ラジオみたいな放送していたが ただ聞こえるのは「汝臣民よく辛抱強く耐えせよ」といった意味の言葉がありますが ああいったのが何か聞こえるようになったんです。終わったら無条件降伏というから なんで今頃、無条件降伏かといって、みんな死んでいないんじゃないか 無条件といったら何されても条件はないんだよとしか考えないから 「ああ、弱ったもんだな」とその時はがっかりしました 終戦後 引き上げ前 引き揚げの時も持ち物は全部決まっていたはず 何でも3つずつ。服もふんどしもハンカチも何でも3つずつ 5月のたぶん初め頃だったと思う。引き揚げ船は 博 多 初めて博多(軍隊仲間の)楢崎の家で「ただいま」と帰って そこで1週間ぐらい居候していたんです 楢崎の家では、住民票もなく、居候の自分に、配給物資とは、いかないからと 父親が隣のセメント瓦工場で、朝昼晩、飯くれるから、仕事しなさいと言うから そこに行って、寝泊りも倉庫みたいな所でやって そこの職人さんが「おい、あそこ寮にフィリピンの引き揚げ者がたくさんいるよ」 とか言うから、ああ、そうか、やっぱり生きている人もいるんだと思って 身内との出会いと父の死 「あい、瀬長小のおばあさんか」と言って、初めて身内に会って 「あんたたちの父親は死んだよ。私達の子どもも死んだよ」 「母親と子どもたち3人は引き揚げたはずだけど」 「鹿児島着いたけど、たぶん大分にいないかな」と言って 「たぶんいたら、大分の三重町あたりでないかな」と話を聞いたんです 母との再会 「瀬長というフィリピンからの引揚者に心当たりありませんか」聞いたら 「ありますよ。子ども3名いますよ」というから 「どこにいますか」と言ったら、これから行ってずっと向こうに岩上という集落だけど あそこに。ここに探しにきていたよ、というから どうせ道はないからあぜ道通って、リュックサックも背負って そういうことで訪ねてこう行って 畑にいる人がいたら聞いて、家にいる人から聞いて、ようやく訪ね歩いて行って 「そこだよ、そこの小屋だよ」と聞いて 行って初めて見た姿が、毛も抜けて、デロデロの着物を着けて子どもが3名だった ああ、生きていたんだなって 自分も一人じゃないんだな、親も兄弟もいるんだな、ということを感じました 帰郷家族との再会 沖縄には10月の終わり頃、11月初め頃に沖縄着いた 不思議なことに、家族がみんな、生きていたんです みんな死んだと思っていた家族が。誰も死ななくてみんな生きているもんだから おじいさんも生きていた。おじいも。妹たちも生きて、おばさんも生きているし あの時、おじいも妹たちも、入って「あい、みんな生きているね」と言って 次世代へ 本当は戦争がない平和な世の中、これに越したことはないと思います どうか世界の子どもたちもそうです。けれども、日本の子どもたちも みんな思っているとおり戦争がなく平和な世の中であって欲しいなとつくづく思うことがあります。 これだけです 収録日:2018年(平成30年)10月10日 |
