宜保 金城 キク(南部避難)_1_全文

ID1170061
作者金城 キク
作者備考出身地「宜保」、1935年(昭和10年)生、当時9歳(小学校2年)
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)宜保_金城 キク_「9歳の金城キクさん。長女として母の片腕となって家事や畑仕事を手伝います。空襲で家が焼け、家族と南部に避難します。一家を支えた母。戦場を逞しく生き抜いた記憶です。」_1_全文
キーワード南部避難、学童疎開、伊良波収容所
総体1語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶_映像資料
総体2
総体3
出典1語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc1、YouTube @TGDA_okinawa
出典1リンクhttps://youtu.be/mUTRpVVkekY?feature=shared
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
宜保
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)1940年代
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)昭和10年代~昭和20年代
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010604文化行政
収納分類4語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶
資料内容一家の大黒柱
私のお家は、戦争の前から、母が一家の大黒柱
なにもかも母親がにぎる。お金も何もかも
うちの父親は、散髪に行く時も「オッカー、お金ちょうだい」
こんなふうに手に出して(お金を)もらっていたそれぐらい母親の権力が強かった

豊見城第二国民学校
学校は、戦争の前は、今の座安小学校(豊見城)第二国民学校だったんです

遊び
2年生の時は、同級生と遊んだりして、一番嬉しかったです
布でお手玉を作った時は、石を入れた。
豆を入れたら母親に叱られるから、「食べるもの入れないよ」と言って。だから、石ころ入れた
それを当てたときは、(友達は)痛いよ、痛いよと言っていた

水汲みと お手伝い
水汲み、はい、うんとさせられました。
あの時は、水道も無く、井戸も1つしかなかった。この井戸が、湧き水でなく、溜める井戸なので
集落のそばのユンチャガーから、一斗缶をつけて
棒に2つ(一斗缶つけて)、エイサー、エイサーして担いで、毎日、水汲み。

戦況と学校
先生が「戦争が始まるから、学校には来たくない人は来ないでいいよ」という話もやってました
母親も「学校行かなくていいよ」
「学校に行ったら艦砲落とされてすぐ死ぬよ」と、もう学校に行かさなかったんです

日本軍駐屯
もう友軍(日本軍)がたくさん入ってきて、集落の大きなお家はみんな貸しなさいって
私達家族は、薪小屋グヮーに追われて、そこに敷物を敷いて暮らさせて
上等なお家、畳の上を友軍が使ってました
自分のお家だけど、お家にも入れなかったです
日本軍が、お前たちこっちに入る所じゃない、出なさいっていうので

日本兵の思い出
井戸で、お椀でも割ったら、すぐパーラナイ、すぐ、こんなやって顔を叩く。
「叩くのやめてちょうだい」って言いたかった。
可哀想でした。鼻血出たりして、ハッサヨーあれは見たくないです。
この兵隊が「何県の人だけど、弟も妹も何名いるよ」
「あなたぐらいの子もいるよ」と言ってすぐ友達になって
私達は残りご飯をおにぎりにして、中に味噌を入れて
(上官に)分からないようにあげました。
(その日本兵は)とってもありがたがって、ありがとうって食べてました。
私は何回も、美味しいイモがある時には、すぐこんなにふうに隠してあげました。
日曜日には、日本兵が集落の畑の手伝いもたまにはしました。
この時は、集落の親たちがお金をあげてましたから
とてもやりたがっていました
お小遣い稼ぎ。
これも隊長に見られたら怒られるので、こんなふうに隠してあげていました。

学童疎開
私は、とても(学童)疎開に行きたかった。「母ちゃん、行かせて」とせがむと
母は「あんたを行かせたら、兄弟はどうなるの」私には、妹も弟もいて、兄もいたので。
「お金がないから、出来ない」と言った。
友達と別れるので泣いて「母が行かさないから、あんた達だけで行って」と、
握手して友達を送り出しました。

日本軍の脅し
私の字は、宜保です。今の豊見城中学校があるところ、あそこは(当時は)山だったので
そこの下に、海軍が防空壕を三つ掘っていました
(ある時)海軍の防空壕に隠れなさいと言われて入った時にすぐ出されました
「出ないとすぐ殺すよ」と言われて。

実家焼失
もうすぐ敵が来るよ、早く避難しなさい、防空壕に急ぎなさいってから言われてよ。
避難していたら隣のおじさんが、「お前達の家ものすごく燃えているよ」
「お前たち ここにいていいのか?」って言ったので
すぐ(防空壕を)出て、(家を)見にいったら、もう(私の家は)みんな燃えていた
自分のお家が燃えてるって、アイエーナー、私達の家が燃えてるって、
私の母はもう泣きじゃくって、大変でした
私の家は大きな家だから、集落で1番に焼けた。
住む家もなくなったので、避難しようということになった。

南部避難
父は避難しないと言ったが、母が「集落に誰もいない。早く私達も避難しよう」と言ったので
みんな、はいはいと賛成した。ここにいたら爆弾落とされるから。すぐ。
祖父母は「私達は、南部まで歩くことは出来ない。みんなだけで避難しなさい」
「どうせ死ぬのだから、家で死んだ方がいいから」と
南部へ避難せずに集落に残ると言ったので、
「空襲警報がなったら、ゆっくり歩いて、防空壕に入りなさいよ」と言って
父と母は、祖父と祖母に教えていた
祖父母は「わかった。警報が鳴ったら、防空壕に行くよ」と。
初年兵で、首里に行っていた長男兄さんは、
足に弾薬落として怪我をしたので、家に帰ってきていた
母親が「(兵隊として戦場に)行くなよ。行くなよ。」と言って
「私達と一緒に(南部へ)逃げよう」と言って、兄も一緒に逃げた

油味噌没収
母親は、沢山の豚を飼ってたが、豚1頭殺して
油は捨てて(避難用食料のため)赤肉の油味噌を作って
日本軍の兵隊が持つ飯ごうに、油味噌をたくさん詰めて(南部避難中)持って歩いていたが
途中、日本兵に「おい、止まれ」と呼び止められ
「飯ごうは、日本兵が持つもの。なぜ持っているのか」と言われて全部取られた。
「中身は私たちに渡してください」と言ったが、油味噌も取り上げられた。
日本兵は、自分達が食べるって。

避難先 糸満 阿波根
(避難して捕虜になるまで)1週間ぐらい
家から出て、保栄茂を越えて、潮平・兼城に出て
また阿波根に1泊。ここは安全だ、と。また、食べ物もいっぱい
農作物から、イモから、いろいろと。
食べ物もいっぱいあるので、宿にしようとしたら、その家主がデージな親切な人で
「イモ、食べて」と炊いて 私達にあげたよ。「ありがとうございます」って食べたけど
あれには、もう本当に感謝します
(阿波根の住民は)みんなお家にいました。
「あんた達どこから来たの」と聞くから「豊見城から来た」というと
「へえ、豊見城!あんな遠い所から」とそこのおばあちゃんが驚いて
「さあさあ、これを食べて。なにも食べてないでしょ。さあさあ食べて」と食べ物をくれた。
ここに長いこといたら、艦砲射撃に撃たれるから、もっと南部に行こうと阿波根を出た。

避難路の死体
南部では、1メートルごしに人が死んでいた。
首から切れた人、胴体から切れた人もいるし、胴体だけ残っている人もいるし。
また胴体は切れて、首も頭もくっついている人が、「助けて下さい、助けて下さい」って
すぐ道のそばで呼んでいるのを聞こえるけど、自分も助ける身じゃないさ
「ごめんね、私達もいつ死ぬか分からないから」と言って、そのまま通りすぎた。
あの人は死んだはず。あの辺はたくさん死んでいたので。
国吉・真栄里の坂まで行った。
そこに行くまでに、何十名から人が死んでいるのを見たので
私達もいずれこんなふうに死ぬのなら家に帰ろう、家で死のうって
同じ死ぬぐらいだったら、家で死のうって

捕虜
豊見城に帰る途中で、(アメリカ軍に)捕まえられた。
糸満の報得橋を越えて潮平で。田んぼ。稲がたくさん植えてある所で。捕虜になった
あそこは、捕虜民がグゥサナイ(いっぱい)いた
糸満の報得橋で、アメリカ兵が「カモン、カモン」したが、意味が分からなかった
「構わないって言って歩かさないけど」と私のおばさんが言って、アメリカ兵に
「構わないのに、歩かさないの」と言ったら
アメリカ兵がよけい「カモン、カモン」するわけ
そこで、アメリカ軍に捕虜されました。
初めてアメリカ兵を見て、こんなに大きいんだなと驚いた
私に(アメリカ兵が)お菓子あげたのでお腹すいていたし、何も食べてないから
(お菓子を)食べようとしたら、すぐおばさんに手を叩かれて
「食べたら死ぬよ、捨てなさい」って、叱られて

喜舎場収容所
(捕虜民は北中城村)喜舎場仲順の浜で下ろされた
沖縄人が「あんたたち、こっちに行きなさい」と入る家を配置した。人の茅葺家に入った。
その茅葺家の床は、ガラガラと隙間があり、ゴキブリもいた。

収容所の食糧事情
(配給は)1日だけ、アメリカ軍から、金平糖とかのお菓子や缶詰などがあり
1日だけは贅沢に食べました
その後からは何もない。自分で。人の畑にイモを盗みに、野菜を盗みに行って
生活しました

古知屋収容所
古知屋山原は、なんにもなかった。こんな(小さな)木がいっぱい生えて
私の兄も一緒に刈って、テント立てて
テントの下に茅を敷いて、そこで寝泊りしました
お汁を作るために(塩を作ろうと)海に潮汲みに、私も行かさた
1斗缶を頭に乗せて、半分だけ。海水をいっぱい入れたら溢れるので
こぼれて、海水をかぶっても、着替える着物はなかった。
母に褒められた。「親孝行だね、ありがとう」って。
母がみんなに塩を作った。塩の汁を食べさせた

収容所の商店
私の母は節約家で、少しお金を帯に隠していた。
パンツに隠す人もいたけど
母は、お金を帯に絞めて、すこしは持っていたって
少し経ってから、お店を開く人がいた。古知屋に
野菜やイモを売る人がいた。これを買って
母は家族に(食べ物を)あげていました

伊良波収容所
テント張って、伊良波(収容所)で生活をした。今も自分のいたところ覚えてます
父や兄は、伊良波(収容所)から、宜保は近いので、
畑を耕して、イモ取りに行ったり
カズラ取りに行ったり、あれからはもうひもじい思いをしなかった
伊良波収容所には、半年ぐらいいたと思います。
はっきりは分かりません。

学校再開
冬になって、寒い頃に、学校も出来ていました
布でくびって、自分でノートを作りました。
運動場にテントをたてた小学校で
私は、座安小学校いきました。
元の学校の建物は、全部崩されて無かった。学校も、周辺も全部テントでした。

宜保に帰る
(宜保の家に戻ったら)おじいさん、おばあさんが元気でしたから
「自分達は死んでいいから一緒に行かない。死ぬさ」って言ったけど
生きていましたよ
(他の人に)「家のない人は、ここにいていいよ」と
私の父が「自分の家がない人は家を作るまではいていいよ」と居させて
あの時1斉に茅葺家を作りました
今日はここ今日はここと、みんな一緒に共同で家を作りました
茅葺の家を作らせていましたよ

亡くなった長男兄
戦争のことで一番気になるのは、私の長男兄が戻らなかったことです。とても優しい兄でした
私達と(南部へ)逃げていたけど、心が許さなかったんじゃないかと思います。
陸軍兵隊だったので。自分の部隊に行くと言って(途中で私達と別れて)行きましたので。
戦争が終わって、落ち着いた時に、双子だった兄のもう1人の兄と三男兄さんと、父と
3人で探したら、品物で兄だとわかり、遺骨を取ってきていました
本当に悔しいです。長男兄は私の手を引いて「勉強して、リキヤーなりなさい」と言っていた

次世代へ
今後戦争は、絶対やってはいけない。いつも平和であることを私は願っています
今の子ども達の時代は平和。平和すぎるほど平和だから
平和を反省して頭を使って、これからも平和であって欲しい

収録日:2018年(平成30年)10月11日

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