積徳学徒隊・ふじ学徒隊 真喜志 光子(那覇市首里・嘉手納町 出身)_1_全文
| ID | 1170031 |
|---|---|
| 作者 | 真喜志 光子 |
| 作者備考 | 出身地「那覇市首里・嘉手納町」、1926年(大正15年)生、当時18歳(積徳高女4年) |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 学徒隊 |
| 細項目 | 沖縄積徳高等女学校(積徳学徒隊・ふじ学徒隊) |
| 資料名(別名) | 那覇市首里・嘉手納町_真喜志 光子_「18歳の真喜志光子さん。積徳高等女学校の時に、女子学徒隊として豊見城グスクの第二野戦病院壕へ配属。臭気漂う薄暗い壕の中で傷病兵の看護にあたります。鮮明に記憶された野戦病院壕とは…」_1_全文 |
| キーワード | 豊見城グスク内第二野戦病院壕、積徳女学校学徒隊、沖縄積徳高等女学校(積徳学徒隊・ふじ学徒隊)、10.10空襲(十・十空襲)、豊見城グスク内第二野戦病院壕 |
| 総体1 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶_映像資料 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc1、YouTube @TGDA_okinawa |
| 出典1リンク | https://youtu.be/lYpvpeeHjMw?feature=shared |
| 出典2 | |
| 出典2リンク | |
| 出典3 | |
| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 豊見城 |
| 市町村2 | 那覇市首里・嘉手納町・宜野湾市 |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
| 年月日(始) | |
| 年月日(終) | |
| 年代(西暦) | 1940年代 |
| 年月日(和暦)(終) | |
| 年月日(和暦)(始) | |
| 年代(和暦) | 昭和10年代~昭和20年代 |
| 始期(年・西暦) | |
| 始期(年・和暦) | |
| 始期(月) | |
| 始期(日) | |
| 終期(年・西暦) | |
| 終期(年・和暦) | |
| 終期(月) | |
| 終期(日) | |
| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010604文化行政 |
| 収納分類4 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶 |
| 資料内容 | 戦前の暮らし 農村地帯ですから 男の子は 勉強はあんまりしなかったです 男の子はみんな 家畜の牛 馬の草を刈っていた 学校帰りに それを日課にしていた 農村ですからお父さんお母さんのお手伝いをしていました エイサーをよくやりましたがうちは おじいさん おばあさんがいて とても厳格な教えで、「私たちもエイサー舞いたい」と言ったら 「士族が習っていけない」と言っていけなかったこともありました 積徳高等女学校 (積徳)こっちは寄宿舎、寮がありました 大きなコンクリートの2階建ての、8部屋くらいあったんですけどね 国頭と宮古 八重山の人 30名ぐらいいました 10.10空襲(十・十空襲) 空襲警報のサイレンが鳴ったから そうしたら警防団の人が「君たち 今日は本物だよ」と言ったので 「何が本物ですか?」「空襲本物だよ」と言うから 一番はじめに港に撃ったかと。 2人 大変なことになっていると言って 出られないんですよ 橋の下から2人出れなくなって ちょうど10時頃でしたか 10時頃に私が 「(爆弾が)止んだみたいだから 2人寮に帰らないと どうなるか分からないから 帰ろう」と言って 2人また手をつないで 寄宿舎に帰ったんです (積徳高女の)寄宿舎に戻ると防空壕に入っている生徒たちもいて 夕方になると那覇はもう火の海でした ちょうど夕方 空爆がもう止んでいるから その時 先生に「みんなもう自分の家に帰りなさい」と言われたんですよ 合宿看護訓練 10月10日の空襲の後は 一時みんなお家に帰ってるから 授業はなかったんですが 3月だったと思います (東風平で)看護教育があって 2週間くらいやりました 第二高等女学校の生徒も一緒で 彼女達はそこに残り 私たちは豊見城に歩いて連れてこられたんですよ 第二野戦病院壕 初日は ただ連れて行かれて 夜でしたから そこに入ったら どこから来たのかも分からないぐらいでした 下はすぐ漫湖で 漫湖からどうやって来たか あんまり覚えていないです (豊見城には)10日ぐらいしかいなかったんですけど 朝は点呼ですけど みんな入り口に整列して検査するんです 艦砲射撃とか爆撃がひどいもんだから 地下足袋をちょうど履いていた時にみんな吹 っ飛ばされて 靴も飛んで、私たちが履くものがなくなっていたんです。 このぐらい激しい場所でした そんな状況で 恐怖症になって帰りたくなって毎日涙流しながら 看護しました 同級生の津波古さん はい、津波古(同級生の)さんに会いました 津波古さんは1カ年看護婦をしていました 那覇の元順病院という病院で 1か年 看護婦して学校(積徳)に入って、私と同じで1年浪人して入ったようです 津波古さんが 息巻いて入ってきて 「今日はこの人の足を切る」とか「手を切る」とか言うから 「つかまえなさい、つかまえにきなさい」と言ったけど・・・ 私は怖くて後ろに引っ込み 行かなかったんです勇気のある人は行ったはずです 暗闇の病院壕 兵隊は2段ベットですけど 灯り一つ ついていない みんなロウソク立ててあって そこに誰がいるかも どんな患者がいたかも私たちは 分からなかったです そのあとに調書とられたんですよ。帰りたい人は・・・ 学徒動員の意思確認 私は兄も中国に応召され 兵隊で 現役で行きました 父は 読谷の飛行場作りに徴用されて 弟は兵隊の食糧 手伝いするといって 家族は母と姉とおじいさんと3名しか残っていないから こういう状況だから自分は帰りたいですと言って調書に書きました そしたら国吉さんが来て 同級生の国吉さん 「あなたは間違っている 協力しますと書いて 異議なし…ご奉公しますと書きなさい」と そこで迫ったんです 私に 「山原まで歩いて、親もどこにいるかも分からない」 「あんた道中で死んだらどうするの 死ぬよ」と言っていたんです 私が「私ここにいられない、怖くて」 「私は空襲が止んだら帰って来るさ」 私よりずっと 戦争について 考え(知識と覚悟)があったかもしれない 私は素人だから… 国吉さんが(見送る時に)私に「あんたの救急袋」 救急袋と非常袋はみんな持っています それ2つ持たせなさいって 非常袋と救急袋を国吉さんが(豊見城グスクの)下まで持ってくれて、 私は何の気なしに 「空襲が終わったらまた来るさ 会おう」と言った それっきりでした 国吉さんはそこにずっと従軍して南部まで行きました 避難生活 朝方 ちょうど那覇から出発して3日目に(本部)着きました 山に避難したおじいさんとおばあさんは民間の人 4・5軒の人と避難していた その壕が3段、 陸からこっちに大きな岩があって 洞窟ですよ 下に行って また一つ大きい穴、3段構えの防空壕に入って毎日暮らしていました 米軍上陸後 昼は壕の中に入って夜は出てイモを食べたり すごい爆撃にも合いました 私が 「戦争勝つよ」と言うと 隣のおじさんが アメリカ船に乗った船乗りだったおじさんが 「どこに戦争が勝つか、負けるんだよ」と言うから このおじさん大変な事を言うなと思った 最後まで勝つと思っていたから 八重岳から部隊が撤退してから そこにみんな食糧取りに行きました おじいさんおばあさんたちは行くんですよ、軍の食糧を納めてある所に 私の母は 親戚のおばあさんが たくさん米あると言うから 取りにいこうといって うちのおじいさんを誘って 「はいおじぃ 一緒に取りに行こう 」と言って このおばさんが連れて行って、取りに行ったけど みんな取られて、おじいさんは何も取らないで帰ってきたことはあったけど 6月頃ですか あの時まで、3段壕の防空壕に入っていて 昼は入って夜は食料探して・・・泣く子がいると 沖縄の黒砂糖持っているおばあさんたちが 「はい これ食べさせて泣かさないようにしなさい」ってしていた うちのおじいさんは防空壕の穴の上にソテツをたくさん切ってきて、置いて 今アメリカ兵が来るという(合図で)上からソテツの 葉っぱを落とすんです 「今 子ども泣かすなよ」と言って それで 米軍が素通りして助かったこともありました 捕虜にはなりません 。6月23日過ぎて… 大浦崎収容所 本当に それこそ惨めな生活をしていたんです みんな山から草の葉っぱ、木の葉を切ってきて、それを敷いて寝る テントはアメリカ軍が5家族に一つぐらいのテントを張って 集団で 何一つない所で、本当にもう 水は、川の下で人が浴びる所で汲んでお湯を沸かして。お米も 配給もないんです 戦後の暮らし 戦後は本当に何もない 金もない 金持った人は あんまりいなかったと思います その時は 戦後 私たちは 田んぼと畑があるから 1か年通して米は食べられるが 、他の人は お芋とかただのお汁だけ このぐらいのものでしたけど。戦後はもう… 良いことに 隣近所みんな焼けているけど 自分の家だけ瓦屋根だったんですよ 家中の床とかみんな避難民が取っていって無かったけど 家が残っていたから また弟も帰ってきたし 兄は現役で兵隊に行って、帰ってきていましたので もう大変な世の中でしたよ 次世代へ 一番言いたいことは本当に 戦争だけはどんなことがあってもしないほうがいいと思います 本当に大変ですよ 私たちは昭和7年に1年生になって それから女学校を卒業して 第二次大戦が始まるまで 軍国教育だったので 本当の教育は全然受けてなかったと思います 正直なことはみんな隠されて、 押し付けがましくて これが心に染み付いて誰もそれを嘘とも何とも思わない こんなに栄えている世の中で また戦争することになったら どうなるか心配です だから絶対に戦争はしない 平和を守るというのが 楽しく生きられることだと思います 収録日:2017年(平成29年)11月14日 |
