豊見城 赤嶺 宏(南部避難)_1_全文
| ID | 1170001 |
|---|---|
| 作者 | 赤嶺 宏 |
| 作者備考 | 出身地「豊見城」、1930年(昭和5年)生、当時14歳 |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 南部避難 |
| 資料名(別名) | 豊見城_赤嶺 宏_「14歳の赤嶺宏さん。弾が飛び交う中、壕と壕の連絡係を務めます。米軍が迫る中、南部へ避難。やがて、山原疎開した家族の元へ向かう決断をしたのですが…」_1_全文 |
| キーワード | 南部避難、海軍壕 |
| 総体1 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶_映像資料 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc1、YouTube @TGDA_okinawa |
| 出典1リンク | https://youtu.be/rYXkEoePCPM?feature=shared |
| 出典2 | |
| 出典2リンク | |
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| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 豊見城 |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
| 年月日(始) | |
| 年月日(終) | |
| 年代(西暦) | 1940年代 |
| 年月日(和暦)(終) | |
| 年月日(和暦)(始) | |
| 年代(和暦) | 昭和10年代~昭和20年代 |
| 始期(年・西暦) | |
| 始期(年・和暦) | |
| 始期(月) | |
| 始期(日) | |
| 終期(年・西暦) | |
| 終期(年・和暦) | |
| 終期(月) | |
| 終期(日) | |
| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010604文化行政 |
| 収納分類4 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶 |
| 資料内容 | フィリピン 戦前はフィリピンです、フィリピンで生まれて 日本人小学校があったんです あっちこっち転校しました、あそこでは移動があったから ミンタル小学校出たり、マナンブラン小学校出たり、こんなでした 沖縄に帰った頃 小学校4年の1学期頃、帰ってきて、2学期から小禄の学校を出てます 5年生からは豊見城。芋食時代だから、豊見城村は農地がいっぱいあって 食べ物は野菜など何でもあるんです。それで豊見城に移ってきたわけです 母 母親が一生懸命働いて、食べさせているから、母親のいうこと聞いて くっついていつも協力するのが楽しみだった 一豊 (今の)長嶺小学校『一豊』豊見城第一国民学校。僕が卒業して国民学校になった それまでは尋常高等小学校です。高等科が2年、尋常科が6年までありました (登校は)ここから橋渡るでしょう、火葬場(南斎場)の手前に下りていって (今の)沖縄空手会館から下りていって 高安の農地を突き抜けて、饒波の所まで(学校は)饒波にあったんです 朝、班を作って(登校した)字豊見城は一番遠かった。『一豊』に。 宜保病院勤務 宜保病院の 宜保成晴先生 「宜保病院で働きなさい」って、僕は気に入られていたはず 、あの時から 草を刈ってきて、馬も養って、また病室の掃除して、そして薬局 薬つくったりしている 青年会長 16(歳)で青年会長していたが、戦、始まっているから 家族の疎開 母親は(大宜味)喜如嘉に疎開させて、娘たち、また子どもたちと、次男三男がいたから 字豊見城の日本軍 海軍から、陸軍から、豊見城の集落にたくさんの兵隊が入ってました (家の)主は、台所に、引っ込めて 宜保病院の先生が本土に移ってから、日本軍の連隊長が入った この敷地は、将校級しか入れない、一般兵が入れない 連隊長が移ってきた時期に 外のトイレはみんなが使うものだが、ドアを開けたら、連隊長がいた びっくりして「大変になった」と思って 「奥の部屋の専用トイレを使って下さい」って連隊長に教えてあげました 豊見城は、陸軍も海軍もいたから 海軍壕にいく(豊見城)グスクの入り口、付近の家は全部海軍の方が住んでいました 食べる時見るんですが、その時に分かるんです。陸軍の人は、飯ごうに入れて 海軍は、こんな大きなアルミの食器、綺麗な食器で 持っていくのを見ました 壕まわり (字豊見城の)区長に命令されて、防空壕まわりさせられていた 「弾薬運搬しろ」、「食糧運搬しろ」って、区長に色々いいつけられた こんなに使われてきたんです 僕は伝令だったので、あっちこっち、防空壕回りして 連絡するのが一番苦しい、ちゃんと、区長の伝言を、伝えないといけない 第二野戦病院壕 (豊見城グスクに)野戦病院が、ありました。あの時は僕も山部隊の防空壕に入っていたから 弾薬運搬したり、色々なことしました。戦場に行くでしょ 戦場に行って、弾薬を届けた帰りには、負傷兵がいるんです。負傷兵を 運搬した車に乗せて、防空壕に連れてきたら「野戦病院に連れていきなさい」と言われて 連れていったんです 豊見城グスクの下に大きな洞穴があるんです。上等な野戦病院になっていたんです 南部避難 戦が、始まって、最初は、軍の防空壕に入っていたけど 南部へ逃げた時の苦しさは、何もいえない。豊見城から荷物担いで逃げた アメリカのトンボ(偵察機)とかいたら、隠れたり アメリカ軍はたくさん(人が)いるところに、榴散弾(りゅうさんだん)を投げる、弾が破片になって落ちてくる 倒れている人は、みんな死んでいる。キビ畑とか、溝に転げ落ちている人もいる 南部から引き返しながら、戦争だから、死人も 何回も見ているので、怖くなかった。平気だった。すぐ通り抜けた。 陣地の前を通ったら(米軍は)日本兵の斬り込み隊と思ったのか、集中射撃されて (一緒に逃げた人で)撃たれた人もいるんです。僕は若かったから一番に逃げて、大丈夫だったけど ゆっくりゆっくり、負傷した人を連れて、一緒に(字に)戻ってきたんです 真玉橋で銃撃 母親は山原に疎開させていたから、山原に行こうとしたら 日本の兵隊だけど 石橋を渡った所で会ったから、「誰かあんた」と言って 話し合って「山原は向こう。あそこですよ」と一緒に 真玉橋を渡ろうとした時に、向かいの山に、米軍の陣地があったはず 照明弾上げて、二人に集中射撃。 大きな木の後ろにいたから良かった。この木にパチナイ(どんどん)アタイシガテ(当たったが)大丈夫だった 二人とも生きて、翌日の朝、アメリカ軍は、集中射撃しているから (僕らが)死んでいると思っている。見に来たら、死骸がない。 後ろに下がって、(草むらが)茂ったところに隠れていたんです 2・3回探してもないから、4回目には、軍用犬が僕の前で舌出して見つめている なんだこの犬は、と思っていたら、引っ込んで行った 引っ込んでいくところ見たら、アメリカ兵が3名、立っている 「デテコイ、デテコイ」って言ったんだけど、容易に出なかったから 黄燐弾(おうりんだん)投げられて(草が)茂ったところ燃やされて、足を負傷した 捕虜 すぐ川に飛び込んだ。そして、タオル持っていたから、手挙げて降参した アメリカ兵が、水筒を自分も飲んでから、私に飲ませた 陣地に連れて行かれて、質問され、日本兵は国場に。僕は古波蔵に 住民がいっぱいいた それが7月2日です 宜野座収容所 このあと、胡屋に行って、長くいませんでした、すぐ宜野座に行った そこから、病院行って、膿が溜まったのか、ウジ虫が出て、膿は吸い取って 筋肉に食い込んでいる。痛くて 宜野座に行ってからは、怪我も治りかけていたので、歩いたりしてまわった 喜如嘉へ 大宜味村の喜如嘉に、母親たちに会いに行ったんです。 (喜如嘉には)字の友だちもいて「うちの母さん達は元気だったね、見なかったね」と聞かれて 誰も見てないから。何も返事しなかったです 豊見城村へ帰る (帰村は)いつ頃か分からんですが。村民は、座安、渡橋名、伊良波この3集落に全部集まりました テント小屋に暮らして、イモ畑に まだ整地もされてない農地に 死体が相当、畑とか集落に転がっている、亡くなっている 各字、綺麗に掃除させに行ったんです。ちゃんと掃除が終わったら(字に)帰した 座安、渡橋名、伊良波、各集落、団体生活して、集落に掃除しに行った 字豊見城へ帰る (字)豊見城は、米軍は、ガソリンまいて焼夷弾を落としたから、全部焼けた。集落全部 石で作ったコンクリートの豚小屋みたいなもの、これだけが残っていた。その他木造、全部焼けた 焼けているから、皆一緒に カバ(テント)で、仮小屋作って住んでいました。豊見城。公民館はまた皆が集まりどころ 豊見城の集落民が、この公民館と上の空き地に仮小屋を作って住んでいました 戦争が終わって アメリカに負けたから 黒人(兵)とかまわってくるんです。いつも家族は隠して、床の下に隠して 戦争が終わって、アメリカ兵と沖縄の人だけしか住んでない。日本人はいない 負けているから、日本人はいない。残っているのは、兵隊だった人 残っている連中は、アメリカ軍のチリ捨てる役をさせられている あの時は、食べ物は、アメリカ軍の 配給の分と、イモはよく食べた。イモは畑にあったから 沖縄戦を振り返って よくアメリカと戦争したもんだねと思う。戦車壕も掘って 戦車を落とすって、このくらいの幅の壕(穴)を掘ったんですよ よく戦争したもんだねと思う 次世代へ とにかく、戦争はしたくないということ。戦争はもう弾(たま)だから 撃たれたら1発で当たって死ぬから。とにかく戦争はどこの国でもしたくないはず 負けた国だったら。いや、体験してるから、哀れを 収録日:2017年(平成29年)11月17日 |
