井上竹逸

人物名(ヨミ)イノウエ チクイツ
人物名(英語)INOUE Chikuitsu
国籍日本
生年月日(西暦)1814
生年月日(和暦)文化11年
没年月日(西暦)1886/04/03
没年月日(和暦)明治19年04月03日

略歴・解説

名は令徳、字は季蔵、通称を玄蔵と称す。天保10年(1839)から12年にかけて長崎奉行田口加賀守の家臣として長崎に滞在した。長崎滞在中には、砲術を高島秋帆(1798~1866)に学んだ。天保12年5月の秋帆の徳丸ヶ原での砲術実射演習にも参加している。蛮社の獄以前に渡辺崋山についたのだが、初め谷文晁(1763~1840)につき、その後崋山についたと伝えられるが、詳細は不明である。経史を大黒梅隠(大黒屋光太夫の長男、1797~1851)に学ぶ。秋帆が疑獄に巻き込まれて逮捕されると、竹逸は自らの無力を嘆いた。嘉永2年(1849)父が亡くなると、家督を継ぎ、梶川家の用人となった。元治元年(1864)には家を子徳太郎に譲って退隠。鳥海山人について七弦琴を習う。明治維新後、旧主梶川氏の生活困窮の話を聞き、愛蔵する琴を金に替え梶川氏に贈った。その忠誠の評に依頼画を乞う者多し、との話が伝わる。晩年は東京に戻り、根岸鶯谷で余生を送った。天保年間の日記が神戸市立博物館に所蔵されている。

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