中山高陽

作者名よみなかやまこうよう
作者名欧文NAKAYAMA Koyo
生没年1717 - 1780(享保2 - 安永9)

略歴・解説

18世紀半ばから後半に活躍した南画家。
土佐藩高知城下堺町に生まれる。幼名は松之助、のち清右衛門、修鍚。宝暦8(1758)年より名を象先、字を廷沖、号を高陽とし、明和6(1769)年頃より名を廷沖、字を子和とする。別号に江竹山人、醉墨散人など。地元の名士・香曽我部家の出で、父の代より商人となり、唐物書籍商の阿波屋の次男として生まれる。
幼時より儒学、書画を学び、30歳前後に上京して彭城百川に師事し、画技を磨く。また、大坂にも赴き、木村蒹葭堂と交友する。
宝暦8(1758)年、江戸に出て井上金峨、澤田東江と交友。宝暦11(1761)年より土佐藩に仕える。
明和9(1772)年の江戸の大火で焼け出され、奥羽に旅立つ。
安永5(1776)年、熱海に遊び、富士山に登頂。
安永9(1780)年、病により帰郷。ほどなくして没す。
江戸画壇に文人画の理念と様式を紹介した。画論『画譚鶏肋』が著名。

2019年『諸派興隆―十八世紀の江戸画壇』リーフレット、p. 24

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