アリスティード・マイヨール

作者名欧文Aristide MAILLOL
生没年1861 - 1944

略歴・解説

スペインとの国境に近いバニュルス=シュル=メールに生まれる。生後まもなく伯母の許に預けられ、孤独な少年時代を送る。この頃からデッサンに才能を現わし、やがて画家を志すようになる。苦労の末、1885年にパリのエコール・デ・ボザールに入学、ジェロームとカバネルの教室に入るが、アカデミックな教育に失望する。その一方で、ゴーギャンの芸術に刺激され、工芸の制作に興味を抱くようになり、タピスリー制作に打ち込んでサロン入選も果たした。ゴーギャンやナビ派の画家たちとの交流は以後も親密に続く。彫刻作品を制作するようになるのは1895年のことであるが、視覚を害したためにタピスリー制作を断念した後は、専らブロンズやテラコッタの彫刻に取り組むようになる。ヴォラール画廊における初個展を経て、1905年のサロン・ドートンヌに出品した《地中海》で広く認められ、この頃から生活も安定する。さらに1910年の《ポモナ》によりその名声は国際的なものとなり、注文に応じて数々の記念碑を制作するようになった。忍耐強く熱心な制作態度は晩年になっても衰えることなく、作品は常に新鮮な生命感に満ちている。1944年、《アルモニー》が未完のまま自動車事故に遭い、数日後バニュルスの自宅にて没する。彫刻、テラコッタ、タピスリーのほか、デッサン、木版画にも秀れた才を示す。死後20年を経て、ルーヴル宮の庭園に18体の彫刻が置かれた。

1994年『ロダン館』、p. 180

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