狩野栄川院典信

作者名よみかのうえいせんいんみちのぶ
作者名欧文KANO Eisenin Michinobu
生没年1730 - 1790(享保15 - 寛政2)

略歴・解説

18世紀半ばから後半に活躍した江戸狩野派の木挽町家の画家。
狩野古信の長男として江戸に生まれる。幼名は庄三郎。栄川、栄川院と称し、白玉斎(はくぎょくさい)と号す。
父・古信と、養父の狩野玄信の相次ぐ死没により、2歳にして跡を継ぎ、六代目当主となる。
母・妙性尼の教育のもと研鑚を積み、寛保元(1741)年、12歳で徳川吉宗に御目見、以降、吉宗に厚遇される。
寛延元(1748)年度の贈朝屏風を制作。
宝暦12(1762)年、33歳にして法眼に叙され、翌年、奥御用を仰せ付けられる。
明和元(1764)年度の贈朝屏風を制作。安永2(1773)年、御医師並(ごいしなみ)となり、嫡子の狩野養川院惟信(1753~1808)も御医師子供並(医師に準する職格)となる。
安永6(1777)年、竹川町にあった屋敷をそのままに、木挽町の田沼意次邸内の一角に、新たな土地を拝領する。
安永9(1780)年、法印に叙される。
寛政2(1790)年、内裏造営にかかる賢聖障子の下絵を完成させたところで病没した。
田沼意次や徳川家治に寵愛され、奥絵師四家のなかで木挽町家が台頭する端緒となる活躍をみせた。
作品制作では、室町時代の狩野元信や雪舟などの巨匠の描いた図様を用い、力強い筆線による狩野派元来の画風を復興する一方で、新しい図様を取り入れるなど、江戸狩野派に画風変革の気風をもたらした。
現存作品は比較的多く、百三十点以上の作例が確認され、山水、人物、花鳥それぞれに力作を残している。代表作には、《山水図・麒麟図・竹林七賢図襖絵》(妙心寺聖澤院)、《西湖図》(徳川美術館)、《山水図(以古図)》(静岡県立美術館)、《夏冬山水図》(毛利博物館)、《春秋景物図屏風》(霊鑑寺)、《仙台領分名所手鑑》(仙台市博物館)、《墨松墨梅図屏風》(アーティゾン美術館)、《唐獅子図屏風》(仙台市博物館)、《鶴図巻》(大英博物館)などがある。

※中谷伸生「聖澤院書院の障壁画」(『関西大学博物館紀要』2号 1996年)
 中谷伸生「再考・妙心寺聖澤院書院障壁画-狩野典信筆『山水・麒麟図』及び『竹林七賢図』」(『関西大学博物館紀要』12号 2006年)
 『狩野栄川院と徳島藩の画人たち』(徳島市立徳島城博物館 2013年)
 小川裕久「狩野栄川院典信のやまと絵」(『美術フォーラム21』29号 2014年)
 安藤昌就「木挽町狩野家における法華信仰と絵画について―『日蓮聖人縁起絵巻』を中心に」(『鹿島美術財団年報別冊』32号 2014年)
 『日蓮聖人縁起絵巻の世界』(池上本門寺霊宝殿 2017年)
 薄田大輔「狩野典信にみる江戸狩野派の探幽学習」(『金鯱叢書』第四四輯 2017年)
 岩坪健「狩野典信原画・橋本栄保模写『源氏物語絵巻』須磨・明石の巻(丹波篠山市立歴史美術館蔵)の紹介-土佐光貞『源氏物語須磨図絵巻』(ハーバード大学美術館蔵)と住吉廣行『源氏物語須磨巻絵巻』(斎宮歴史博物館蔵)との関わり」(『同志社大学人文学会』 2020年)

2021年『忘れられた江戸絵画史の本流―江戸狩野派の250年/江戸狩野派の古典学習―その基盤と広がり』、p. 140

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