エメ=ジュール・ダルー

作者名欧文Aimé-Jules DALOU
生没年1838 - 1902

略歴・解説

パリ生まれの彫刻家。ロダンとはプティト・エコールに学んで以来、長年にわたって親交を結ぶが、ダルーの才能を最初に見いだしたのは、先輩彫刻家のカルポーであった。カルポーの勧めでプティト・エコールに通った彼は、その後エコール・デ・ボザールに入学し、ローマ賞に4度挑むが、すべて失敗する。生活のために習った金銀細工やブロンズ鋳造の技術を用いて、パリのペヴェ邸のような大邸宅の装飾を引き受ける。1870年のサロンには、日常的光景から取った主題を等身大で扱った作品《刺繍する女》を出品し、三等賞を受賞する。翌年パリ・コミューンが崩壊すると、革命軍に積極的に加わっていたダルーは、ロンドンへの亡命を余儀なくされる。9年間に及ぶ英国滞在中、ロイヤル・アカデミーの年次展にたびたび出品し、《母の喜び》《読書する女》などの風俗的主題で世評を高める。1879年にパリに戻った彼は、《共和制の勝利》(パリ、ナシオン広場、除幕は1899年)のコンクールに参加。1890年代にはもう一つのモニュメント、《労働者のための記念碑》(実現されず)に取り組み、多くのテラコッタ習作をのこした。19世紀フランス彫刻史へのダルーの貢献は、既存の観念や慣習に囚われることなく、同時代の風俗から選択した主題を、真摯な態度で素直に表現したことにあった。なお友人であったロダンは、ブロンズで《ダルーの肖像》(1883)を制作している。パリで没。

1994年『ロダン館』、p. 178

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