衣装(上)

ID1210
機関記号9901676-001
資料名(よみがな)イショウ
別名上衣
点数1
形状ごく簡易な盤領型の襟、ボタンどめ。子供用。紺地に後は背中と両袖、前両身頃に白抜「丸に橘」紋計5か所、下方に桜、五三桐の小紋と松皮菱崩しを横並びに配している。
収集場所北葛城郡広陵町広瀬
寸法(高さ、縦)cm64.60
寸法(幅、横)cm139.40
指定種別奈良県指定有形民俗文化財
指定分類番号01-02-5
指定名称大和万歳資料
資料解説 大和万歳を演じるときの衣裳。収蔵番号:9901676-2/2の袴と一対。
 藍型染めで背と両袖、前身頃に2つ、計5つの大和万歳のトレードマーク「丸に橘」紋、下方に桜と五三桐紋、松皮菱崩しを横に配します。襟は垂領ではなく、胸紐や菊綴じもないごく簡易な盤領型、ボタンで止めるようにしていますが、これは後になって改変を加えたものと思われます。
 江戸時代の大和万歳の装束は、侍烏帽子に素襖とされることが多く、例えば大田南畝の随筆『一話一言』(18世紀後半~19世紀前半期)に「和州ノ萬歳ハ太夫才蔵共ニ烏帽子素襖ヤウノモノヲ著ス」とあり、同時期に出版された『大和名所図会』(寛政3年=1791)の大和万歳挿図には侍烏帽子を被り、太夫は橘文様、才蔵は熨斗目と柄違いながら、共に素襖のような衣裳を身に着けた姿が具体的に描かれています。
 
資料説明詳細 万歳は、平安時代には存在したといわれる千秋万歳の末流と考えられている祝福芸の一種で、大和における万歳の記録は、元亨4年(1324)の『内山御所毎日抄』を初出として中世からみられます。
 近世になると、特色をもったいくつかの系統の万歳が全国各地で行われるようになり、大和国広瀬郡、平群郡、式下郡などから訪れ、京周辺、大和国内を旦那場として巡回する人々は、「大和万歳」として知られていました。正月に太夫役と才蔵役の2名が一組となり、烏帽子、素襖の装束で家々の門口や座敷で祝言を述べ、舞を演じました。太夫は扇を持って祝言を唱え、才藏が小鼓を打ちながら合の手を入れます。正式に演じるときは「柱立」を初番として「田植舞」「南蛮胡椒」「戎舞」「月舞」と次々演じていきます。
 明治時代の開化諸政策の中、一旦廃止となりましたが、その後復活、大正年間までは巡回していたようです。しかし、昭和初期には廃止の申し合わせが行われ、その後昭和30年4月、奈良県の無形文化財の指定を受けていますが、昭和40年代頃に入ると伝承者も皆無となり、昭和52年、奈良県文化財保存顕彰規定が文化財保護条例となった際、後継者がいないとして更新は行われませんでした。
 本資料を含む「大和万歳資料」48点は、昭和56年(1981年)4月、最後の伝承者の御子息(故人)より寄贈を受けたものです。大和万歳のかつての活動を具体的に伝える貴重な遺品であり、平成24年度(2013年3月)奈良県有形民俗文化財指定を受けています。
参考文献鹿谷勲「大和万歳資料について」(奈良県文化財保存課提出資料『奈良県立民俗博物館所蔵大和万歳資料』 2013年3月)
山村雅史「「大和万歳」に関する研究ノート」(奈良県立同和問題関係史料センター」『研究紀要』第3号 1996年3月)
吉田栄治郎「大和万歳祖神考」(奈良県立同和問題関係史料センター」『研究紀要』第8号 2002年3月)
鹿谷勲「奈良県の万歳芸」(『秋篠文化 特集万歳』秋篠音楽堂運営協議会 2005年1月)
大阪人権博物館『万歳 まことに めでとう そうらいける』図録(2007年9月)
『大衆芸能資料集成』第1巻 祝福芸1 萬歳 三一書房 1980年
備考宮本義光氏のご子息である宮本義雄氏が、父の従兄弟にあたる叔父より資料の存在を知り、2007年来館。宮本義光氏は、既に亡くなり、義光氏の弟も2006年に亡くなったため、大和万歳資料について知る身内は誰もいなくなったとのこと。非公開の事情(義光氏の意向による)を説明したところ、歴史的に貴重な資料であれば、むしろ公開してほしい、との意向であった。2007年9月に大阪人権博物館で開催された「万歳-まことにめでとうそうらいけるー」で貸出申請があり、改めて義雄氏に連絡の上許諾していただけたことから、以後は公開資料として取り扱っている。

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