朝倉 文夫

人物名(ヨミ)あさくら ふみお
出身地大分県
生年月日(西暦)1883
没年月日(西暦)1964

略歴・解説

朝倉 文夫(あさくら ふみお)は大分県出身の彫刻家(彫塑家)である。号は紅塐(こうそ)。「東洋のロダン」と呼ばれた。舞台美術家・画家の朝倉摂(摂子)は長女、彫刻家の朝倉響子は次女。大分県大野郡上井田村(現豊後大野市朝地町)村長であった渡辺要蔵の三男として生まれる。後に東京藝術大学彫刻選科に入学。第2回文展に「闇」を出展し、最高賞である2等をとり、翌年は3等をとる。1921年に東京藝術学校の教授に就任、ライバルと称された高村光太郎と並んで日本美術界の重鎮であった。戦後も精力的に自然主義的写実描写に徹した精緻な表現姿勢を一貫して保ち続け、1948年には第6回文化勲章を受章。1964年4月18日、急性骨髄性白血病にて死去。正三位を追贈される。墓所は谷中霊園にある天王寺の飛地にある。

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