長井線駅シリーズ 南長井駅

資料ID5308
作者菊地隆知
制作年1983
公開解説私は先頃はじめて「南長井駅」のホームに佇(た)った。ちょうど上りが発車する時であった。乗客の大部分は高校生。残された靴跡が降りはじめた雪と一緒にシャーベット状になっていた。
いつ頃から利用されたのかナと思っていた。もう誰も居ないと思っていた処から、「私が生まれた年からです」と言う声が聞こえた。よく見ると「西宮内駅」で遊んでいた女の子と似ていたがずっと大きくなっている。そして「昭和三十五年五月二十日」から乗り降りされていることを教えてくれた。何故かその娘は、毎日のように五年間もここを利用していたことも話してくれた。
「無人駅だから」あなたの、わたしの、みんなの良心でまもりましょう―と横に書かれた文字を見た。その下に「長井高校生徒会、長井製作所、台町子供会」と南北に細長い待合室の壁面に。
ホームの反対側に目をやると長井線では珍しい看板が二つ程立てられていた。「下宿や」のCM。先刻の娘は長井高校のための駅であると言っていた。でも高校の建物は駅から直ぐ見えない程に附近は二十余年も経ったことをうなずかせられる。
三年程前に作られた「高校六十年史」を開くと、県立長井中学校の大正九年四月十五日に開校式を挙げていることから始まる。その後の幾多の変遷や、紆余曲折の歴史の流れの中に、一万五千三百余名の同窓生を世に送っていることがわかる。
「カラコロカラコロ、早朝の下駄音、白線の入った帽子を誇らしげに頭上にのせ長井駅下車、道路の真中を悠々南に歩を進めること二十分…」と現水野校長が、集団となり街を行く汽車通学生を記しておられる。舗装道路が長井駅前にしかなかった頃の話だが、町民の耳に中学生の「下駄音」はなつかしい。
「難しい世と思ふ、朝早く、あの山この山、実に青い」高校には昭和四十九年五月に建てられた句碑がある。八代目佐藤剛(柊坡(しゅうは))校長の昭和二十二年の作と聞く。
先生のお心が、その内容から、生きてゆく上の生徒諸君ばかりでないはげましの言葉であろうと思う。
【芳文52号】
公開解説引用【芳文52号】

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