長井線駅シリーズ 時庭駅

資料ID5307
作者菊地隆知
制作年1983
公開解説長井線の数の上では真中になるのが「時庭駅」である。自分の生まれた年の百年前頃はどういう世であったのか、と、ふと小学生のような気持で年表を見ることがある。
一八三〇年、天保元年、この年から東北地方大凶作とある。もう百五十年も前のことになってしまった。一八五三年、嘉永六年、米国の提督ペリーが軍艦四隻をひきい浦賀につく。一八五四年、安政元年、ペリー再び来航し日米和親条約を結ぶ等々目につく。
 天保四年十一月十三日に菅原白龍はここ時庭に生れている。市内宮に四年前「芳文庫」が開設された。その十月「白龍展」がそこでひらかれ大盛況であった。長井古文書研究会は更に、菅原白龍筆「草書千字文(もん)」を復刊し、その会場で多くの人に頒(わ)けている。その解読書も添えられ、「白龍小伝」が記されている。
…家は代々修験者で、村社諏訪神社別当であり、居宅を白龍山梵村院といい、また大乗院ともいう。白龍は幼名を源暁、本名を道雄、字を元道という。…画業において、一新機軸を出し世に知られているが、書(とくに草書)においても、独自の境地を拓き、彼の画幅は、書画一体不即不離の情趣をかもし出したものである。このあと白龍山人のことは、その研究者により、残された資料により、ふる里では、もっとその人を知るべきと思われる。
今年二十周年を迎えた「長井古文書研究会」の益々の研究発展を願っております。
 十年程前、知人宅にて平塚運一先生(今年八十八才・私の先生)の版画を見せて貰った。知人の弟さんが仕事で米国に住んでいて、「土産」に頂いた話。弟さんが私の事を言って先生に尋ねて行ったらしい。「いいお土産だなっす」とよく見せて頂いた。その折、床の間にかけられていた絵が白龍のもの。「この人のもの好きでナ。でもこの位いいものが自分の物になるには三十年以上もかかった」と色々なものを見せて頂き話も聞かされて帰った。その後会う機会がないままに近年亡くなられた。ちなみに知人は、長井線沿線の方である。
【芳文51号】
公開解説引用【芳文51号】

PageTop