長井線駅シリーズ 赤湯駅

資料ID5300
作者菊地隆知
制作年1983
公開解説長井線の全線開通から今年は六十年と云う。汽車で上京したりする時、必ず乗換えするのは「赤湯駅」である。葡萄液で、したたかに酔い、そんな状態で満員の夜汽車に押し込まれる様に乗ってから約四十年の刻が経つ。広島に原爆が投下されるまで、その汽車に乗ってからひと月とたっていない昭和二十年七月の或る日のこと。
もうその頃、学校では正規の授業はなし、工場、勤労奉仕等にかり出されていた旧中学三年生の時だった。駅で送ってくれたのは、下級生の一、二年だけだった。当時住んでいたのは本町南。その日家を出て本町の大通りを歩き町役場にあいさつにまわる。その頃わずかの雨が降り校長(佐藤剛先生)にこうもり傘をさして頂いたことをなつかしく記憶している。小学校生徒のころから出征兵士のための「兵隊おくり」は本当に何回したことだろうと、今ひょいと思う。送られる役にまわったのがこの時。
「ばんざい」「ばんざい」の町民の皆さんの歓呼の声を後に勇躍長井駅を発つ。
一緒に同じ所の予科練に入隊する同級生が赤湯駅で顔を合わせた。H君は伊佐沢から、S君は駅のごく近くに住んでいて列車の時間待ちの為の準備をしてくれていた。そして間もなく書き出しの「ブドー液」のところに戻ることになる。
県外に出るのはこれが初めてだったと思う。その頃は一晩位かかって東京に行くのが当たり前だったのでは。
東京駅から誰かが「宮城(きゅうじょう)に行ってみよう」と言い、歩き出したら「空襲警報」のサイレン、そしてどこからともなく高射砲の発射音が空をきった。敵機を見ている内、ゆうべの車中を思い出した。
怒鳴り声が耳にひびき目を覚ました。少し離れた向こうの方で二、三人の「憲兵」とかかれた腕章を付けた姿が目に入った事を。
特急などの走らない頃の、いささかの想い出が残されている私の断片の一つである。
【芳文45号】 
公開解説引用【芳文45号】 

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