平田篤胤
分野分類 CB | 宗教学・神道学 |
---|---|
文化財分類 CB | 学術データベース |
資料形式 CB | テキストデータベース |
大分類 | 国学関連人物データベース |
タイトル | 平田篤胤 |
+ヨミガナ / NAME / 性別 | ヒラタ アツタネ / HIRATA ATSUTANE / 男 |
+小見出し | 備中松山藩・久保田藩に仕 |
+別称 | 〔姓〕大和田 【国2】平 【和】 〔称〕正吉・半兵衛 【国2】又五郎・大角 【書】 〔名〕元琢・胤行 【国2】玄瑞 【和】 〔号〕大壑・菅ノ屋・気吹屋 【国2】真菅屋 【和】 〔諡〕神霊能真柱大人 【国2】 |
+生年月日 | 安永5年<1776>8月24日 【国2】 |
+没年月日 | 天保14年<1843>9月11日 【国2】 |
+享年 | 68歳 【国2】 |
+生国 | 出羽秋田・久保田城下・下谷地町 【国2】出羽久保田 【和】 |
+生国(現在地名) | 秋田県 |
+住国 | 出羽秋田・武蔵江戸三十間堀・武蔵江戸山下町 【国2】江戸 【和】 |
+住国(現在地名) | 秋田県・東京都 |
+墓地名 | 秋田手形広沢山・正洞院 【国2】 |
+学統 | 中山菁莪,大和田柳元,本居宣長[没後ノ師],本居春庭 |
+典拠 | 国伝2,国書人名辞典,和学者総覧.8631 |
+史資料 | 〔後鈴屋集 前編下〕 平田篤胤の、年ごろ道に志ふかくて、わが故翁(本居宣長)のあらはされたる書どもを、明くれ見つゝ、深く信じて、いかで対面せばやと思ひわたりつるを、道のほど遠く、かつは心にまかせぬ身にて、つひに其ことなくてやみつることゝ、つねにくちをしう思ひためるに、去年の三月の末つかた、夢に人の来て、鈴屋翁のこゝにものせられてありつるが、今なむかへられしと、つげけるにおどろきて、とるものもとりあへず、からうじて品川といふあたりにおひしきて、まづ思ふ心のかたはし、うちかたらひなどして、教へ子の数にさへなむ、くはゝりぬると見たりつるは、かつかつも、としごろねがひつるほい、かなふこゝちして、いとうれしう思ひけるまゝに、猶ゆく末ながく、しのぶたよりにもと、やがてそのありへるさまをうつさせて、これに歌よみて、書きくはへてよとあるに、 本居春庭 わだつ海の、ふかき心の、かよひてや、そこには見えし、人の面かげ。 夢にても、かたる見るめを、かつぎつる、契はふかき、春のうみづら。 〔高等国文〕 嘗て一日、大人紙屑買より反古を数多買取られしが、其中に古事記の古本ありしを、夫人石橋氏(三河国岡崎城主水野侯の家臣、石橋宇右衛門の女)之を見て、大人に謂けらく、此は皇国の古史なれば、必ず読給ふべしと、仍て大人之を熟読し、始て皇道の古学を研究すべき志を起したりとなむ。(此一節は井上頼囶ぬしが、先考より聞伝へし説なる由)斯て板倉侯は、小藩にして、平田家の俸禄百俵なれども、渡方時々滞りて一年之を勘定せしに、代価にして金百三十余の取不足と成れり。然るに大人は鋭意修学に意を用ひて、家計のことなど、意には介せさりしかば、遂に二百金程の借財に及び、甚だ艱難なりし故に、滞禄の渡方を願ひしに、勘定役の者申聞に、百金余の事は、主人勝手不如意なれば、渡し難しとなり茲に於て、大人云けらく、滞禄渡し給はらずば、金主より公辺へ出訴に及ばむ。然る時は、主家へ済方申付らるゝは先例なれば、主君の名誉に関し恐こければ、先鞭を付けられて、私に永の暇を賜るべしと願ひければ、是非なき次第とて、永の暇を賜る由なり。其後加賀の国守前田侯を始め、大家の諸侯、三四家より召抱むとの内意ありしかども、俸禄の為に、一身を束縛せられては、進退自由ならず、所詮天下経綸の大策を断行するの妨と思ひ、区々として一身を藩士の列に置くを欲せず、一処士を以て帷を下し後進を誘掖せむと断念したるよしなり。(以上、箕田水月の書) さて享和元辛酉の年七月、大人廿六歳の時に伊勢国松阪に至り、本居宣長大人の門下に名刺を捧げ、始めて師弟の約を結べり、然れども門下の諸氏大人が気勢を忌む者多く、讒間行はれて、未だ親しく師の教を門下に受るを得ず、荏苒過隙の際に本居先師は仙逝せり。大人の遺憾想ひ遣るべし。此時に当て、皇学未だ海内を風靡するに至らず、修身道徳の学は、徒に儒仏の支配に属す。然るに僧侶は幽冥を専ぱらにして、来世の禍福を説けども顕界の事業を度外に置き、儒士は現世の経綸を主として、修身の定理を談ずれども、神明の境界を虚誕の如く蔑視し、悖道無道、吾が天皇陛下の何たるを知らざる者あるに至れり。是を以て大人は敬神忠君の熱血を注き、天下の耳目を一洗せむ事を勤しみ、同三癸亥の年、廿八歳にして呵妄書を著述し、鴻儒太宰純が悖言を弁駁せられたり。是を大人が著書の始とす。爾後専ぱら思志を千古に潜めて内外の史籍を渉猟し、天地の精理を発揮して、皇国の元気を振興し、惟神の大道を宣揚して忠君の志気を激励し、外国拝崇の風教を一変して、皇神ノ稜夷の重んずべきを知らしめ、柔惰偸安驕奢俗を紊す末伎を唾破して、尚武厳正の思想を馴養せしめむ事を勉められて、古道大意、鬼神新論、西籍慨論、出定笑語、伊吹於呂志等の著書、続々出されたり。斯て文化八辛未の年、三十六歳の時、大人の門弟、駿河ノ国人柴崎直古が、郷里の人々の請に任せて、直古が邸宅に寓居して、諸子を教示せられしが、其年の十二月に成て、大人諸子に告て云らく、年の極の事業しげく、春の始の営事すべければ、汝等然る方に勤しみてよ。余は箱根山の霜雪を踏分むが侘しければ、冬とも知らぬ此暖国に旅居して、春を迎ふべし。其に就ては、此間汝等の請へる事に依て、己も早くより思ふ者あり。何方にまれ、静かなる家の一間なる處をと言ふ任に、直古が奥の一間を見立てゝ移らはせ、有合の古書等、数部を取集めてさし籠り、夜の衾も近附けず、文机に衝居て、夜も日も書を読み、かつ筆を採て、朝夕の御饌参らす間も、明ら目もせで書を読つゝ、文机の上にてきこし食し、其月の五日より、十日まり二日三日の頃まで、夜は七夜、昼は八日の間に、古史徴の稿を成せり。さて直古謂らく、如此夜昼となく物し給ひなば、體軀やいたはり給ふべき。今夜よりは夜床に入り給へと、甚く強ひければ、大人云らく、最早古史徴の草稿成りて、巻も終へたれば暫時睡ろまむ。覚るまで勿驚かしそ。枕もて来とて、頓て衾引かつぎ、高鼾引して甘寝すること日一日、夜二夜なりき。直古、また余りに長寝し給ふ事の心もとなく思ひて、窃かに覚し参らせければ、大人起居て勿覚しそと言てし物を云て、頓て文机に居寄て、勤しむこと前の如くなりしとぞ。(以上、新庄道雄が古史徴添言)爾後十年間は古史成文、古史徴開題記、神代系図、霊能真柱、古史伝等の著述に勉励せられて、年に暇日なかりき。斯て学室の戸外に、竪一尺二寸許、巾二尺許の口演一札を張置れたりとぞ。 |
+辞書類 | 古学,国書,神大,和歌,国史,神人,神事,神史,本居,大事典,名家 |
- | |
資料ID | 40381 |