荻原守衛

作家名(よみ)おぎはらもりえ
作家名(英語)OGIHARA Morie
生地長野県安曇野郡穂高村
生年1879
没地東京角筈
没年1910

作家解説

明治32年9月何回かの家出の後、ようやくその志が親に認められて上京し、洋画の修業を始める。明治34年にはアメリカへ遊学の旅に出、35年にはニューヨークの美術学校に、翌年にはパリに渡り、数多くの芸術品に接した。留学中、アメリカではウォルター・パッチや戸張孤雁、フランスでは中村不折や岡精一に会い、感化されながら芸術性を高めた。ロダンの代表作「考える人」との出会いが決定的なものだった。守衛は「私は作品に接して、初めて芸術の威厳に打たれ、美の神聖なるを覚知して茲に彫刻家になろうと決心した」、とその時の感動を記している。 明治40年守衛は初めてロダンを訪問し、その後アトリエでロダンの作品を直に見たり、親友パッチと共にロダンから直接教えも受けた。こうして守衛はロダンを師と仰ぎ、ロダンも次第に守衛を弟子として扱うようになった。フランス留学中、20数点の彫刻を製作し、日本の近代彫刻の礎を築いた記念碑的作品『坑夫』が生まれたのもこの時期だった。以後、ローマ、ギリシャ、エジプトの美術を見て廻り、明治41年神戸に帰国した。渡欧中の明治40年夏、自ら初めて「碌山」という雅号を名乗っている。帰国後は創作の場を中村屋奥のアトリエに決めて創作活動に励み、このアトリエでの初めての作品が『文覚』、続いて『デスペア』であった。『文覚』は第二回文展で3等賞となったが、同じく出点した『坑夫』は落選。当時の日本彫刻界では未完成の作品としかうつらなかった。その後、『戸張孤雁像』『香炉』『灰皿』などが製作され、明治43年日本近代彫刻史上最高傑作といわれる『女』を製作した。守衛は帰国からわずか3年後の明治43年4月20日、突然喀血したが、それはちょうど愛蔵・黒光夫妻と相談の上、帰国した友人柳敬助のためにアトリエを改造して完成したその日の出来事だった。

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