牧園洋子さんのグンジャムチ(米粉使用)

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グンジャムチ

名称(ヨミ)ぐんじゃむち
遺産概要徳之島で昭和30年代に作られ始めた、鯨餅(くじらもち)の一つと考えられる。天城町では浅間集落を中心に上が黒糖入りのソーダ餅(蒸しパン)、下が白砂糖入りの餅粉を同時に蒸した菓子で、端午の節句に作られている。また、徳之島町母間や亀津のものは、上が黒糖入り、下が白砂糖入りの共に餅粉を蒸して作られ、お盆に供される点で異なっている。奄美大島ではクジリャムチなどと呼ばれているが、ほとんど作られなくなってしまったため、郷土料理研究家の泉和子さんが料理教室を通じて普及に努めている。

※本データベースに登録されている「与名間集落の年中行事」(非公開)には、端午の節句にグンジャモチを作るとあるが、素材については記載がない。

グンジャムチの源流は、江戸時代初期のころ珍重されていた「塩鯨」をモチーフに作られた京菓子、鯨餅だった可能性がある。塩鯨はゴンドウジクラ類などの皮を塩蔵し、黒い皮とともに白い脂肪が特徴の保存食で、室町時代から貴族や武家に好まれていたが、のちの江戸時代になり庶民の夏のスタミナ源としても好まれた食品である。

室町~江戸時代中期ごろまで、砂糖が高価であったことから、京菓子は皇族や貴族、上級武士、大商人など富裕層のみに購入されていた。高級品ゆえに趣向をこらそうにも風味のや形状の変化には限界があったため、ひとつの方向性として、本来なら塩気のある料理や食材などを模した意外性を楽しむ菓子が生まれたようだ。

国内各地の鯨餅は、京菓子だった鯨餅が北前船で広まったとする説があり、広島県尾道市(鯨羊羹)、石川県金沢市(鯨餅)、山形県最上地域と村山地域(久持餅)、青森県下北地域や鰺ヶ沢町(久滋良餅)、北海道小樽市や函館市もしくは道南地域など(鯨餅、その派生のべこ餅)で作られている。ただし宮崎県の佐土原町(さどわらちょう)に残る鯨羊羹は、発祥や作り方などに独自性が強く、趣を異にしているように思われる。

徳之島へ伝わったルートや製法は不明であるが、下記のような可能性が考えられる。

大正時代から瀬戸内町久根津で営まれていた捕鯨基地が、太平洋戦争で爆撃され破壊された。しかし昭和20年代後半、本土復帰にかけての数年に密航船による捕鯨が盛んとなり、それに乗じて徳之島からの働き手が多数、瀬戸内町へ渡ったそうである。その折、捕鯨関係者などから鯨餅の事を知らされる機会があったかもしれない。鹿児島県において、奄美大島と徳之島でのみ作られている理由、昭和30年代に作られ始めている理由において矛盾していない。

一方で、天城町においてのみ蒸しパンと餅の重層になったのかについては、定かでない。さりながら、昭和30年代に販売を拡大した「ロバのパン屋」をはじめ蒸しパンが流行していたり、あるいは重曹/ソーダが入手しやすくなったことや、婦人会結成の流れが徳之島にも波及し、料理教室などが活発となった時期とも重なっている。町内の料理教室に参加していた主婦が考案し、定着した可能性がある。

他方、作られる時期について、天城町では他地域にもある端午の節句(五月五日)だが、徳之島町ではお盆となっており、函館など道南においては主に端午の節句、小樽ではハレの日やお彼岸となっている点で、桃の節句などに作られている山形県や青森県由来でなく、北海道にまつわる人物から伝わった可能性がある。

なお、写真にあるグンジャムチは令和6年(2024年)の夏に、浅間集落の牧園洋子さんが作り、販売していたもので、蒸しパン部分が小麦粉から米粉へとアレンジされ、全体としてモチモチ感がアップしている。

【グンジャムチの作り方】
徳之島空港の到着ロビー横、徳之島観光連盟カウンターで発売中のレシピ集に掲載されている。登録されているPDFは、その抜粋となっている。レシピにはないが、蒸しパン(ソーダ餅)と白餅の硬さをほどよく茂るのに慣れが必要とのことだ。

 
文献・資料【情報提供、聞き取りなど(敬称略)】
株式会社虎屋・虎屋文庫・小野 未稀(虎屋文庫の蔵書等情報)
郷土料理研究家・泉 和子(独自の調査等資料)
瀬戸内町立郷土館・町 健次郎
天城町 徳田 昭子、新田 和枝、牧園 洋子
徳之島町 𠮷川 洋子

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