旧暦行事カレンダー2020年版

島の旧暦行事カレンダー2020年版

中分類年中行事
遺産名(ヨミ)しまのきゅうれきぎょうじかれんだー2020ねんばん
資産概要本項は、天城町を中心とした行事について記述している。

島人の行事は主に、年貢のためのサトウキビ作と、食べるための米作(うるち米ともち米)を中心に執り行われていた。

正月は松の内が長く二十日正月に準じ、本来は武家の鏡開き、刃柄(はつか)を祝う行事だった。正月の間は、祝儀周りや干支の日取りに合わせた歳の祝い、大工祝い、回漕関係者の祝い、新築祝い、初原迎え(野良仕事の安全祈願)、先祖祭りなど様々な祝い事を集中して行っていた。また、準備も前年十一月ごろから薪を割り、掃除、正月に着るショウガチギンを用意するなど、年忘れや晦(つごもり)、正月を楽に過ごせるよう、入念に準備をしていたという。

松が取れるか取れないかのうちに、サトウキビ収穫の準備が始まり、二月にかけて一斉に刈り取りつつ、砂糖炊きも行われた。おそらく作業が厳しいばかりで、島人からは好まれていなかったサトウキビ作は、祝い事や祭りが伝わっていないが、砂糖地獄の時代に失われたものと考えられる。だが、小規模な前祝いや、砂糖炊きが終わったときは、祝いの宴会を催したようである。そして植え付けした後には、すぐ田植え(うるち米)が待っていた。

サトウキビ畑が農地の大半を占めたため、米作のみでは食料が足りず、米は普段、家長のみが食べ、女子供はサツマイモを食べていた。一方、戦前までは全国的にご馳走の代表であった餅は、島の行事にも欠かせない存在だったようで、モチタボレの習慣と共に営まれていた。餅は正月のみならず、三月三日、端午の節句、盆(盂蘭盆会)、モチタボレなどで供されており、内地よりも餅を食べる機会が多かったため、減らすようお達しが出されるほどだった。なお、もち米とうるち米は別々の時期に植え付けを行わなければ、もち米がもち性を失ってしまうため、必ず時期を違えて栽培する必要がある。

現代に残る旧暦の行事は、主に稲作を中心に営まれてきたものの名残だが、稲作が始まったのはカムィヤキが作られるようになった11世紀ごろからと思われ、もともとあった島の習慣や行事に加え、江戸時代になり世が安定したことによって栄えた仏教や権現信仰などと共に行事も伝わり、あるいは双方が影響し合いながら営まれてきた。例えば、盆のすぐあとに浜下りが行われているのは、おそらく浜下りの習慣が先にあり、あとから仏教と共に盆が伝わったためと考えられる。しかしながら、琉球王国の影響下にあった奄美では、祖霊信仰が根強かったため、祖霊を迎える盆以外の宗教行事は馴染まなかった。その影響は、わずかにイビガナシ(真言宗)やビンジルガナシ(賓頭盧信仰)などに見られる程度である。

徳之島の三大遊興日は、シキュマ、ハモオリ(浜下り)、ジュウグヤ(十五夜)であった。しかしながら、現在ではジュウグヤ(おそらく中秋の名月)の盛大な祭りは完全に忘れ去られている。米作をしなくなってからは、シキュマを失い、残っているのは浜下りのみとなった。

現在でも、一部の行事は旧暦に則って日取りが決められている。節句(正月、三月三日、五月五日、九月九日)や盂蘭盆会(盆)以外の行事では、日にちでなく十二支や六十干支、十五日(十五夜)が用いられることが多い。六十干支については、6巡すると360日となり、太陽暦の365日と近かったため用いられたと考えられるが、経年によりズレが大きくなるため、運用には疑問が残る。例えばアンダネ、アジラネと呼ばれる行事は五月の壬辰(みずのえたつ)の日とされるが、一ヶ月は30日、六十干支は60日で一巡するため、壬辰が五月に来ない年もあり、疑問が残る。また、虫あしび(旧四月)やモチタボレ(旧九月)などでは、決められた日を中心に雨降りでない日や、晴れた日を選んだ可能性がある。

【戦後の習慣】
廃れつつある習慣のなかに、天城町における端午の節句に、フチムチ(よもぎ餅)でなくグンジャモチを食べるという習わしがある。もともとのグンジャモチは奄美大島で作られていた、鯨の皮に似せて黒糖入りと白餅の二段重ねの蒸し餅だったが、昭和30~40年代に女性連の活動が活性化して料理教室などが行われるようになった頃、黒糖入りのソーダ餅(ふくれ菓子)と白餅の二段重ねにアレンジされたものが供されるようになったと思われる。従って戦前からあった習慣とは考えにくい。左様に戦前にあったかのように思われている習慣も、戦後発祥の行事であったり、牛なくさみ(闘牛)のように戦後になって、形が全く変わってしまった行事も少なくないと思われる。

【旧暦について】
いわゆる旧暦は、太陰太陽暦のうち、日本独自の進化を遂げた暦(こよみ)である。和暦の一種でもある。太陰暦は月の運行で一ヶ月、一年の長さを決めるが、太陰太陽暦は太陽の一年の運行を観測し、太陰暦に補正をかけた暦である。暦は、江戸時代には幕府の天文方によって管理され、幾度も改良され最終的に天保暦となり、明治5年まで運用された。天保暦の特徴は、西洋の天文学を取り入れ、精密な太陽観測と、春分を起点として二十四節季の日付を正確に算出したことにより、月の満ち欠けを中心とした太陰暦とのズレを補正した点である。その観測と計算は、現在のグレゴリオ暦よりも精密だったという。旧暦の一月は29日か30日であり、一年が354日しかなく、現在より早く一年が終わってしまうため、三年で一ヶ月のズレを生じてしまう。当然、季節と一年の日付とのズレも大きくなる。そこで二十四節季の節季・中気のうち、中気を用いて暦のズレを補正し、閏月(うるうづき)を入れるのである。中気は年に12回あるが、ほぼ3年ごとに中気を含まない月が発生し、太陽の運行に準じた季節とのズレが最大になったことを意味する。その月を閏月とし、前の月を繰り返すことで季節より先に進みすぎた太陰暦のズレを補正する。今年(2020年)は本来なら皐月(五月)がくるはずの月に中気がなかったため、閏四月が入れられて13ヶ月となっている。こうしたことから、旧暦はあくまでも月の満ち欠けを基準とした時間の考え方ではあるが、農業にとってはあまり相応しくなく、むしろ二十四節季の方が役立ったと思われる。一方で、どのようにして島の百姓に暦を周知徹底していたのか不明であるが、ノロが管理していた可能性が考えられる。

※下記、関連情報にあるリンクは、プリントアウトに適したカレンダーのPDF(A3)である。
関連資料https://drive.google.com/file/d/1IRnvRrEID-qegYDbTWBhIAvNexQh8Dyx/view?usp=sharing

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