第一坑道入口(現在、唯一確認できる入口)

松原銅山

名称(ヨミ)マツバラドウザン
中分類生産遺跡
小分類近代
所在地天城町松原
時代・年代近代
遺産概要 講堂館柔道で名を馳せた徳三宝の父である、徳三和豊が発見した銅山で、明治37年に、徳三和豊が大阪の高橋安兵衛なる人物を招いて、松原鉱業所(松原銅山)の経営、採掘を始めた。
 鉱夫は150人ほどで、その3分の1は内地から出稼ぎに来た渡り鉱夫であった。明治37年は日露戦争の始まる年のことで、離島のための輸送不便などもあり、経営は難航したようである。難しい経営ながらも徳三和豊は熱心に松原鉱業所の経営に尽力したが、明治41年に脳溢血で急死ため、実業家である田中省三に売却さた。
 鉱山周辺は鉱石を溶かすために樹木の伐採が進んだことや、採鉱所から出る鉱毒によって荒れた山となった。しかし鉱山関係者が行き交う松原西区の宝土地区は、飲食店が立ち並ぶほど賑わいを見せ、精鉱運搬のため、区画整理も進んだ。
 最盛期の大正10年ごろには、300人ほどの鉱夫が働いており、戦時の好景気や戦後の不景気や恐慌のあおりを経て、昭和3年頃に閉山したと考えられています。
文献・資料〈参考文献・資料〉
●天城町教育委員会1991『天城町の文化財をたずねて』天城町教育委員会社会教育課

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