A地区中世建物跡検出状況

中組遺跡

名称(ヨミ)ナカグミイセキ
中分類集落跡
小分類貝塚後期(弥生~平安)
所在地天城町兼久字中組
時代・年代貝塚時代後2期~中世(8世紀後半~16世紀頃)
遺産概要【位置と環境】
 中組遺跡は、兼久中津上に所在する。集落のほぼ中央に位置しており、集落を縦断する県道下に遺跡は存在している。
 兼久集落は標高50~60メートルの石灰岩台地に立地しており、この台地は南側から北側に向かって傾斜し、その台地の中央に集落をニ分するように、県道が南北に走っている。県道の両側は、県道に比して標高が高くなっており、排水施設が設置される以前は、降雨時に県道に水が集まり川のように流さたとされ、その水が行きつく先である台地北端に天城中学校一帯は、学校が築かれる前まで天水田が広がる一帯であったとされる。

【調査経緯】
伊仙天城線平土野工区道路改築事業(県道拡幅工事)に伴って、平成23年6月30日から同年10月20日まで、天城町教育委員によって、発掘調査が実施されている。

【概要】
 中組遺跡からは、8世紀後半~16世紀ころの遺構や遺物が検出している。
 遺跡の南側に設けられたA調査区からは、掘立柱建物を構成したと考えられる柱穴が多く検出している。これらの柱穴の中からは、15世紀~16世紀ころの中国産陶磁器やカムィヤキなどが出土しており、柱穴はこの時期に設けられものと考えられる。
 柱穴の多くは同じ場所に重複して掘られていることが確認される。同じ場所で何度も掘立柱建物の建て替えが行われたことを表しており、恒常的に生活した痕跡であると考えられている。このことから、15世紀~16世紀ころには、すでに兼久集落が立地する台地上に集落が展開していたと考えられている。
 遺跡の北側に設けたB調査区は、その中央から大きな窪地が検出するなど、遺跡の土が厚く堆積していた。この厚く堆積した地層は大きく三つの時期に分けられ、上層の12世紀後半~13世紀ころと、下層の8世紀後半~11世紀前半ころ、その間に堆積する中層は、上下の層の中間的な年代と考えられている。
 上層からは、11世紀~13世紀ころの時期の中国産陶磁器やカムィヤキが出土している。建物跡などは、高倉跡と考えられる掘立柱建物跡が1軒確認されるのみで、住居跡などは確認できなかった。しかし、上層からは一定量の遺物が出土していたため、11世紀~13世紀の人々が暮らした居住空間が調査区の近くに存在していることが推測されている。
 中層からは約10m×7mの大きさの窪地が検出した。この窪地に堆積した土は灰色で、水分を多く含んでおり、土の堆積が水性堆積していたことから、元々、泥状の水が溜まった場所であり、その周囲から土砂が窪地に流れ込み、埋没したものと考えられている。中層からは、8世紀後半~11世紀前半ころのものと考えられる中組遺跡一帯で製作された兼久式土器や、一一~一三世紀ころの中国産陶磁器やカムィヤキが混在している。状況で出土した。
 下層からは兼久式土器が主体的に出土し、そこに須恵器(灰色の素焼きの陶器)やカムィヤキなどが僅かに伴って出土する。中国産陶磁器などは全く出土しておらず、八世紀後半~一一世紀前半ころの時期の地層と考えられている。
 B調査区に堆積した地層は窪地に堆積した地層も含め、水分を多く含み、灰色化しており、水田の土と類似した地質であった。遺跡の土をサンプリングし、その分析を行なったところ、イネの炭化種子や、イネの葉に含まれるガラス質の結晶(以下、イネのプラントオパール)、イネの花粉が検出した。特にイネのプラントオパールは水田跡の判断基準となる一グラム当たり5000個を上回る量が検出しており、B調査区に水田跡があった可能性が高いという分析結果が得られている。
 しかし、発掘調査の際に水田に伴う、畦畔や床土などの痕跡が丹念に探索されているが、それらは見つかっておらず、B調査区に水田があったことについては否定的な評価が行われている。
 しかし、推測の域は出ないが、天城町瀬滝の戸森の線刻画一帯では池のほとりに稲籾を撒き、実れば収穫するような稲作が行われていたようであり、B調査区から検出した窪地においてもこのような稲作が行われていた可能性もあると考えられる。
 これら、イネのプラントオパールや、イネの花粉、イネの炭化種子は8世紀後半~11世紀前半ころの時期と考えられている下層から出土しており、徳之島における稲作の開始を考えるうえで注目される。
文献・資料〈参考文献・資料〉
●県埋蔵文化財情報データベース
●天城町教育委員会2013年『中組遺跡』天城町埋蔵文化財調査報告書(6)

PageTop