1963年6月2日、和泊から出した大島吉之助の書状②

中分類古文書
小分類近世文書
資産概要解説 この書状は沖永良部島の獄中で認められたものである。昨年閏八月一五日、沖永良部島和泊に急造された吹き曝しの格子牢の囚人となり、生命さえ危ぶまれた痩身の吉之助を救ったのは、間切横目正照であった。正照が座敷牢を発案し、代官の許可を得て新築したのは二ヶ月後。年内には吉之助の健康は恢復したものと思われるが、獄中から島外への書状が許可されたのは年が明けてからのようである。翌年になったのは、島からの船便が出るのが三月以降であったためか。獄中から島外に出した書状で、現在知られているものは②をふくめて次の一一通あり、全部『西郷隆盛全集』に読み下し分で収録されている。
・一九六三年三月二一日 大島龍郷の島役人藤長宛
・同 四月一二日 大島勤務桂久武宛
・同 六月二日 徳之島井ノ川の島役人禎用喜宛
・同 同 徳之島岡前の島役人中為宛
・同 九月ごろ 徳之島与人宛(薩摩戦争問合せ)
・同 九月二六日 琉球勤務の米良助右衛門宛(右同)
・同 一〇月一六日 中為宛
・同 一〇月20日 禎用喜宛
・同 一一月一七日 藤長宛
・同 一一月二〇日 喜界島遠島中の村田新八宛
・一八六四年一月二〇日 鹿児島の叔父椎原与三次他宛
②の中為宛の書状は禎用喜宛と一緒に送ったものである。先に禎用喜の手紙が届いたので、その返事を兼ね、徳之島滞在中のお礼を二人に述べた書状となっている。また、大島の藤長からも書状が届き、妻子が徳之島から土産を貰って帰って来たことが詳しく記されていたので、「重畳御親切の次第御礼申し上げ候」と認めた。そして、追伸で仲祐に対して「御賢息様」という最大の尊称を使って、お礼を述べている。仲為宛には②の他に一〇月一六日にも書状を送っているが、この原文はユイの館には所蔵されていない。この書状も重要な内容が認められているにで、『西郷隆盛全集』所収の読み下し分を口語訳にして解説を加えておこう。

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