1865年10月五日鹿児島から中原万兵衛が出した書状③

中分類古文書
小分類近世文書
資産概要解説 この書状は仲為が仲原宛に仲祐の様子を尋ねるとともに、島の黒糖を送ったことに対するお礼の返書である。西郷が鹿児島に帰国したのは1一八六四年二月二八日であった。それから一年半が過ぎている。この書状によれば仲祐の上国はこの年の上り便(船)であったことになる。事実、後にあげる④の書状では「去々夏上国いたし」とあり、一八六五年の夏であった。仲祐は上国すると「則二西郷様方へ混与居られ至極元気にて油断なく用事手習い学文等出精致さる」と記されているように、西郷家に同居して、おそらくは川口雪篷(量次郎)の指導を受けていたのであろう。もう一つ、この書状で重要な内容は、砂糖生産にかかわる状況である。中原は、去年三月三六〇万斤の農作であったことを知って、今年の生産高を案じている。やはり中原にとっては砂糖生産が一番の関心事であった。『徳之嶋前録帳』は一八五五年の生産高を「中島砂糖惣出来昔ヨリ無之万作」と記し、三百捨五万八千四百六拾斤をあげている。また、一八五七年には三百四十万五百二十六斤が記録されていて、年々生産高が増加していた。さらに、「南嶋雑集」には文久三年以降一〇年間の生産高が記録されている。                                                 
一八六三年 三六二七万七千余斤(植付面積一八五〇町)
一八六四年 三七七万三千余斤
一八六五年 四二一万二千余斤
一八六六年 四四六万九千余斤
一八六七年 四一三万七千余斤
一八六八年 四六二万五千余斤(注・この年に明治元年)
一八六九年 二一三万七千余斤 
一八七〇年 一九五万三千余斤(植付面積一〇二〇町)
一八七一年 三〇七万七千余斤
一八七二年 二三五万余斤 (植付面積一〇三〇町) 
中原が徳之島に在勤していたのは一八六二年から三年であった。吉之助が、木馬に書き送ったように、上村代官が島民の砂糖生産欲を高めるような改革を断行したことから、植付面積が増加しさらには手入れにも精を出したために生産高が伸びたものだと考えられる。中原が仲祐の勉強振りを書き送った一年後の一〇月一五日、仲祐は帰国していた西郷に伴われて、京都見物に出掛けた。それから二ヶ月後、悲しい知らせが鹿児島の川口量次郎(雪篷)のもとへ届いた。

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