1867年中原万兵衛から福山清薩宛④

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資産概要解説 仲祐の死去からこの書状の記された二月二一日後までを、時系列で並べてみよう。 ・一八六六年一二月二五日 仲祐疱瘡に罹り病死する。 ・        一二月二八日 西郷が京都に帰る。 ・        十二月二九日 西郷が書状を川口量次郎に送る。 ・一八六七年   二月一日 西郷が鹿児島に帰ってくる。
・         二月一三日 西郷が高知・宇和島に出発する。 ・         二月二一日 中原が福山宛書状を送る。 ・         五月一五日 仲為が西郷家に書状を出す。  この時系列で見ると、西郷は年が明けてすぐ仲為の墓石を京都相国寺の薩摩基地に設立し、永代休養のため銅銭千疋を寄進していたことが分かる。そして、また帰郷するとすぐ西郷家基地にも石碑を設立し、その死を悼み丁寧共養していた。相国寺の碑銘には次のように刻まれているという。
西郷吉之助家来 徳嶋仲祐墓(側面)寺納金千疋
また、鹿児島の南林寺境内にあった西郷家基地(現在は鹿児島常磐町に移転している)の碑銘には、次のように刻まれているという。
玄道智徳士 慶応二丙寅十二月甲廿六日(側面)於京都没 徳之嶋 仲祐
「金千疋」とは単位が「疋」であることから「銅銭千疋」のことである。一疋は二五文であったから二五〇〇〇(二五貫文)となり、破格の金額であるという。この二つの墓碑銘の違いは、当時の状況を物語っていろ。京都の墓碑銘には「西郷吉之助家来 徳嶋仲祐」とあり、鹿児島の墓碑銘は「仲祐」となっている。これによると京都には「徳嶋」という名字が刻まれ、西郷家来(藩士)の一人として処遇されていたこたが分る。これに対して鹿児島では「仲祐」のみである。当然姓が許されていない道之島人であったから、名のみの墓碑銘になったのである。しかし、西郷は仲祐が年は若いが(二二歳)、賢明で徳を兼ね備えていたことを讃えて「玄道智徳士」という戒名を送って供養している。なお、鹿児島の死亡日は一日遅れとなっている。次に、書状に記されている川口量次郎・新納源左衛門・福山清蔵・嘉玖保については、判る範囲であげておこう。川口量次郎は大島吉之助より先に沖永良部島に遠島になっていて、西原村で私塾を開いていた。川口に対しては外出の制限がなかったので、吉之助獄中を尋ねてきては、漢詩や書を指導した藩士として知られている。西郷は一六八四年二月、許されて帰国するとおそらく量次郎の赦免を求めたものと考えられる。川口について土持網義著『流謞之南洲翁』は「翁に長ずること十有余年、陽明学を修め書を能くす。嘗て久光公に召され写字生となる。雪篷性酒を嗜む。家貧にして余財なく、公の秘書を典物とし以て酒を買う事露れて、沖永良部島に流され西原に寓す。」と記述している。ここに記されている罪状については、どうも川口本人が諧謔話として語ったものと思われる。『敬天愛人』第四号に「雪蓬自筆の川口家系譜」が紹介されているが、これによると「祖父并親依科士被召赥」とあり、父小仲治(実兄であるが量次郎は養子になっている)が嘉永四(一八五一)年八月「欠け落ち致し候に付き名跡召し禿げられ候」と記されているので、養父の駆け落ち(欠落)による連座制によって流罪になったようである。川口が書いた書幅が現在も西原に保存されているが、その書は雄渾な筆致で書かれていて、「香雲」「狂迂」「雪蓬」の号が用いられている。なお、「雪蓬」については系譜に「明治五年壬申九月一九日依願改名雪蓬」とあり、後の命名であったことが記されている。これらの書のいくつかは、当時指毫されたものであろう。川口はおそらく書き上げると吉之助に批評を仰ぎながら、漢誌や書を語り合ったに違いない。吉之助も川口の影響を受け書を書き自ら漢詩を創作するようになると、号を考えたようである。同時期に奄美大島に在った重野安繹(流罪中)が、後に語ったところによると「沖の永良部島にて別号を屈虫と書いた書状を木場傳内に送ったが、屈虫の帰納か窮の響あり改めて然るべし、と傳内の忠告に因り南洲と改めた。」という西郷が仲祐の死去を川口に書き送ったのは一八六六年一二月である。その前に、③の中原万兵衛が養父仲為にあてた書状の「則に西郷様方へ混与居たれ」にあるように、仲祐が西郷家に同居していたので、おそらく川口もその頃には西郷家に寄食していたのではないだろうか。あるいは川口が許されて帰国したときに仲祐を伴って上国した可能性も考えられよう。いずれにしても川口量次郎は西郷の信頼を得て西南戦争後も西郷家を守った儒学者であった。新納左衛門と福山清蔵については徳之島に派遣されたいた藩役人のようである。福山清蔵は吉之助が沖永良部流謫中に附役として在勤し(一八六一年~一八六二年)、さらに、一八六四年二月二一日、吉之助を迎えに西郷信吾・吉井中介とともに蒸気船胡蝶丸で来航したほど西郷とは昵懇の中であった。その後、一八六六年には徳之島代官勤となり来島していたものと考えられる。文面の「貴館」は①の「東館」と同じ藩役人の詰め所仮屋のことをあらわしている。新納源左衛門は福山より遅れて派遣された詰役のようである。「徳之嶋前録帳」によると先に代官と附役五人が派遣され、一年後に二人の見聞役が来島するような生態をとり、互に二年の任期がずれるようになっていた。おそらくこの規程により新納は一年遅れの派遣となったのであろう。嘉玖保は徳之島の島役人であろうか。当時鹿児島に上国できた人たちは、藩庁から御祝儀のために上国を命じられた島役人と、同行を許された数名の者たちであった。しかし、この前年には御祝儀による上国はいない。この他、医術や唐通辞の習得で上国を許された人たちもいたので、あるいは嘉玖保もこれらに励んでいて島人であったかもしれない。  

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