大覚寺絵図(正和4年、1315、向かって右が北)

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大覚寺文書

資料名(ヨミ)ダイカクジモンジョ
大分類市内の指定文化財
中分類兵庫県指定文化財
小分類有形文化財
種別書跡等
指定日昭和42年(1967)3月31日
所蔵者大覚寺
別名
数量56点
時代/年代正和2年(1313)~天正17年(1589)
所在地尼崎市寺町9 大覚寺
解説寺町にある律宗・唐招提寺末の月峯山大覚寺は、建治元年(1275)に尼崎に来た琳海上人の開基と伝えられますが、寺伝が伝えるその初源はさらに古く、かつて長洲にあったという燈炉堂にまでさかのぼります。同寺所蔵の「大覚寺縁起」などの縁起類等によれば、長洲浦人に霊地剣尾山(現能勢町)を教えられた百済出身の僧日羅が、聖徳太子の命により推古13年(605)同山に月峰寺を建立し、さらに長洲には浦人たちの手で燈炉堂がつくられ、これが後に大覚寺となったと伝えられます。
中世には尼崎町のうち市庭町に寺域を構え、元和3年(1617)の尼崎城築城にともない現在地である寺町に移転しました。
大覚寺に伝わる大覚寺文書は、正和2年(1313)から天正17年(1589)に至る56点の文書からなり、中世尼崎の史料として貴重なものです。中世の長洲荘(ながすのしょう)・長洲御厨(ながすのみくりや)の地は、東大寺の荘園領有における土地支配と賀茂御祖社の御厨供御人に対する人間支配が重なり合い、両者は激しく領有を争いました。大覚寺文書には、この重複型荘園の典型とされる地における相論の在地史料を含むことで、よく知られています。
正和4年(1315)「大覚寺絵図」(31.4×50.1cm)には、大覚寺伽藍内部の金堂・三重塔・講堂・鐘楼などが描かれています。外には大道が通り大物川に橋が架かっており、市が立つ市庭や、後掲のとおり大覚寺に寄進されることになる湯屋も見え、中世尼崎町の様子を伝える貴重な絵図史料となっています。
また、嘉暦元年(1326)「長洲御厨領家寄進状」には、鴨社領長洲御厨の領家がこの年、燈炉堂・同敷地・湯屋を大覚寺長老覚海上人に寄進したことが記されています。
これらはいずれも、兵庫県指定文化財である大覚寺文書56点のうちの1点です。
指定目録等参考データhttps://www.city.amagasaki.hyogo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/028/883/daikakuji-monjo-list.pdf

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