2巻 p.022-023

ページ概要直良信夫氏からのハガキとそれに対するコメント
含まれる遺跡・寺院等元弘三年碑/帝室博物館/博物館
遺跡・寺院等の所在市町村
登場人物(記載ママ)直良信夫
記載年月日大正14(1925)年4月22日
翻刻[判読不可は■]直良先生からの絵はがき
直良先生とはずいぶん長いおつきあいである。赤星ノート第2冊(大正14年4月以後昭和4年3月までの分を合本したもの)に直良先生からの「むかしちひろ」の(貝化石)の絵葉書が貼ってある。大正14年4月22日付の消印がある。裏表はペン書の小文字でべつたり埋められている。肉体[編注:「具合」か]を悪くして瀬戸内海で養生していたころのものである。
『明石市大蔵谷小辻〔マスキング:個人住所番地〕直良信夫』とすばらしい達筆である。
〔著作権保護のためマスキング〕
私は考古学関係の人達から未だ手紙やハガキはすべて保存していた。村本信夫と書いたハガキもどこかにあるはずだ、直良先生がまだ村本姓だつたときのものである。貝塚発掘をやつて動物の骨を採集したとき、その骨が何だか知りたくても教えてくれる人がいなかつた。私は帝室博物館の高橋健自先生の御指導をうけていた。先生のところへ骨を持ちこんでも、これだけは教えてもらえなかつた。先生は当時帝室博物館へ動物標本を納めていた甘崎■■郎という人を紹介して下さった。私は本郷のその店をたづねて採集した骨について1つ1つ名をきいて自分の標本を作った。ずいぶん苦労したことを覚えている。その後直良先生が動物の骨について研究されるようになってからは、貝塚採集の骨はみな長良先生のところで見ていただくことになったので、苦労しないですむようになった。この点は私だけではなかろう。当時貝塚調査をまとめた人達は大なり小なり直良先生の恩恵に浴している筈である。先生は苦労して動物を解ぼうし、御自分の標本を作っていたことを知っている。今日我々が苦労せずに動物の骨について名前を知られるようになったのは直良先生の長い間の御努力によることであることを忘れてはなるまい。
直良先生の御ハガキの文はわざと旧仮名使のままにした。読みずらいだろうがそのままを伝えたいからである。

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[翻刻(所属は翻刻時)]
坂本早希(慶應義塾大学文学部 国文学専攻3年)
千葉 毅
[翻刻日]
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[一部修正]高尾将矢
[修正日]2022年2月1日
[修正箇所]
 「直良先生の恩恵に■している筈である」→「直良先生の恩恵に浴している筈である」
記載資料の現在の所蔵機関
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ノート所蔵機関赤星直忠博士文化財資料館

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