近松門左衛門の墓

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近松門左衛門の墓

資料名(ヨミ)チカマツモンザエモンノハカ
大分類市内の指定文化財
中分類国指定文化財
小分類記念物
種別史跡
指定日昭和41年(1966)9月2日
所蔵者広済寺
別名
数量1基
時代/年代享保年間頃
所在地尼崎市久々知1-3-27 広済寺
解説高さ48cm、緑泥片岩の自然石を墓石としています。墓石表面には近松門左衛門の戒名「阿耨院穆矣日一具足居士」(あのくいんぼくいにちいちぐそくこじ)と妻の戒名「一珠院妙中日事信女」(いちじゅいんみょうちゅうにちじしんにょ)、裏面には「享保九年(1724)十一月二十二日」と没年が刻まれています。
近松門左衛門の墓と称するものはいくつかありますが、国指定史跡になったものは、広済寺の近松墓と大阪市中央区谷町にある法妙寺跡の墓の2基だけです。近松門左衛門は音曲の名人竹本義太夫と協力して、近世初頭に始まった人形浄瑠璃を空前の盛況にまで発展させた脚本家で、「曽根崎心中」「女殺油地獄」「冥途の飛脚」など数多くの名作を残し、 東洋のシェークスピアとも称されています。広済寺再興の開山講に名を連ね、同寺において母の供養を行うなど、広済寺と深いつながりがあったことがわかります。毎年、命日(11月22日)の前後の日曜日に広済寺において近松祭が盛大に催され、文豪を顕彰しています。
指定目録等参考データ

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