本居大平

分野分類 CB宗教学・神道学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
大分類国学関連人物データベース
タイトル本居大平
+ヨミガナ / NAME / 性別モトオリ オオヒラ / MOTOORI OOHIRA / 男
+小見出し稲掛棟隆男、本居宣長養子、和歌山藩士
+別名
+別称〔姓〕稲掛 【和】
〔称〕常松・十蔵・十太・田丸屋十介・三四右衛門 【和】
〔号〕藤垣内 【和】
〔名〕茂穂・重穂 【和】
〔諡〕八十言霊大人 【国2】
+生年月日宝暦6年<1756> 【国2】(一説に、宝暦6年<1756>2月17日 【書】)
+没年月日天保4年<1833>9月11日 【国2】
+享年78歳 【国2】
+生国・住国
+生国・住国(現在地名)
+生国伊勢松坂 【国2】
+生国(現在地名)
+住国伊勢松坂・紀伊和歌山 【国2】
+住国(現在地名)
+墓地名和歌山湊吹上寺 【国2】
+墓地現在地
+学統須賀直見・本居宣長 【和】
+典拠国伝2,国伝続,国書人名辞典,和学者総覧.10499
+解説目次
+解説■履歴 伊勢松坂の豆腐業田丸屋・稲垣棟隆の子。寛政11年(1799)に宣長の養子となる。享和元年(1801)に宣長が没すると、宣長の嫡子春庭が眼疾であったゆえ、翌二年、代わって大平が本居家を継いで紀州藩に仕えた。文化五年(1808)には『紀伊続風土記』撰進の命をうけ、翌年には住居を和歌山に移している。これ以降、本居家は伊勢と紀州と両地に分れた。天保元年(1830)に浜田孝国(本居内遠)を養子に迎えて後継者とした。

■学問動向 父棟隆は、本居宣長古参の門人であり、大平自身も明和5年(1768)に13歳で入門。その後は宣長について勉学する。 大平は和歌に長じたが、学問・歌学の面において宣長を越える事はなかったとされ、歌論書『村田春海に答へる書』では、賀茂真淵を理解していると思われるが、自説を述べるには至っていない。しかし、国学史上において大平が注目される点は、宣長の学問を祖述し、よく門人に教授し、かつ鈴屋社中を統率した点にある。大平が門人たちへ講義・歌会・書簡での指導を行なったこともあって、門人は1,000余人に達し、当時の国学界において随一の勢力を誇った。
+特記事項■歌文学 大平は、宣長や春庭の如く、独創的な著述といったものを、終生残すことは無かった。ただし、その事は、大平の歌文学的才能が人並みであったという事を意味するわけではない。即ち、明和5年に鈴屋に入門して以来、当初父棟隆と須賀直見の教助を受け、その後、宣長より懇切丁寧な和歌の指導を受けた大平は、嘱目されるべき歌人でもあった。松坂では、嶺松院歌会や遍照寺歌会等に、宣長と共に定期的に参加し、もちろん鈴屋歌会にも参加していた。また、宣長の『玉鉾百首』所収の和歌に大平が注釈を施した『玉鉾百首解』や、安永6年(1777)から寛政元年(1789)にかけて行われた、『万葉集』をめぐる鈴屋における会読および宣長の講義を大平が記録した『万葉集会評録』は、その講義・会読の筆録後、大平自身の『万葉集』講義や研究に本書を用い、自らの考察を随所に書き入れている。こうした歌に関する著述、あるいは『なぐさの浜づと』等の紀行文等は、大平の歌文学的才能を示すものであろう。また宣長同様、大平は歌風において古体と近体とに詠み分けた。古体の集を『藤垣内集』、近体の集を『稲葉集』という。前者の特徴は、古語を取り入れて歌を詠もうとする熱意が漲っているという点である。これは、国学派歌人に共通する志向であったとされる。後者の『稲葉集』は、大平の代表的な歌集であり、近世末期に盛んに刊行された類題集は、その影響を受けている。

■『三大考』をめぐる論争 大平は本居学の忠実な祖述者であった、といった一般的イメージは、確かに正鵠を得るものであるが、この問題に対して詳細に立ち入ってみると、そこには師弟の間に微妙な学説の相違も否定できない。その一つが、『三大考』をめぐる論争であった。周知の如く、服部中庸が物した『三大考』は、神道的な宇宙観を古典と天文学とを整合することによって明らかにしたものであり、宣長の高い評価と特別の計らいに基づき『古事記伝』十七之巻の附巻として掲載された。この『三大考』に対して「皇国の古伝」を尊重する立場から痛烈な批判を加えたのが、後の文化3年(1806)に大平の門人となった外宮祠官の橋村正淳(橋村正兌)であった。正淳は『三大考』を弁駁すべく『三大考説弁』を物したが、当該書を精読した大平は、同書に頭書或いは付箋をして自己の見解を明らかにした。全体的に見ると大平は、正淳の『三大考説弁』を評価し、また正淳の当該書を契機として、大平自ら『三大考弁』を物している。そこでは、月を黄泉ノ国と同定する説や、月読尊と須佐之男命とを同一神と規定する『三大考』に示された中庸の学説に、反論している。
+参考文献
+史資料〔古学 中〕
父と共に、鈴屋に学び、其塾に寓すること年久しく、其性篤実温厚にして、能く師説を確信しければ、竟に宣長の養子となり、本居氏をつがれ、三四右衛門と改む。後、紀殿の命にて、和歌山に移住を命ぜらる。然るに春庭病あり。加ふるに祖先の墳墓の地を去るに忍びず。もとより松坂も、紀殿の領地の内なれば、公に許しを得て、松坂の家に留り退隠す。後故ありて、春庭の男、有郷へ紀殿より別に俸を給へり。大平、門人に教ること、まめやかなりしかば、業を乞ふもの、千余人に及びしとぞ云。天保四年癸巳九月十一日、身まかりぬ。年七十八、和歌山吹上寺に葬る。私に八十言霊大人と諡す。長子建正、称を兵衛と云。次子清島、左衛士と称し、共に壮にして身まかりぬ。季子永平、中山美石、足代弘訓等の塾に入り学を修む。後本居家をつぐべき人なりしが、これも年わかくして終られしとぞ。
+史資料〈著作〉
+史資料〈碑文〉
+史資料〈その他〉
+辞書類国書,神大,和歌,国史,明治,神人,神事,神史,本居,大事典,名家
+和学者カード
-40361 国学関連人物データベース 36 1 CKP000021 本居大平 MOTOORI OOHIRA  伊勢松坂の豆腐業田丸屋・稲垣棟隆の子。寛政11年(1799)に宣長の養子となる。享和元年(1801)に宣長が没すると、宣長の嫡子春庭が眼疾であったゆえ、翌二年、代わって大平が本居家を継いで紀州藩に仕えた。文化五年(1808)には『紀伊続風土記』撰進の命をうけ、翌年には住居を和歌山に移している。これ以降、本居家は伊勢と紀州と両地に分れた。天保元年(1830)に浜田孝国(本居内遠)を養子に迎えて後継者とした。

■学問動向
 父棟隆は、本居宣長古参の門人であり、大平自身も明和5年(1768)に13歳で入門。その後は宣長について勉学する。
 大平は和歌に長じたが、学問・歌学の面において宣長を越える事はなかったとされ、歌論書『村田春海に答へる書』では、賀茂真淵を理解していると思われるが、自説を述べるには至っていない。しかし、国学史上において大平が注目される点は、宣長の学問を祖述し、よく門人に教授し、かつ鈴屋社中を統率した点にある。大平が門人たちへ講義・歌会・書簡での指導を行なったこともあって、門人は1,000余人に達し、当時の国学界において随一の勢力を誇った。

■歌文学
 大平は、宣長や春庭の如く、独創的な著述といったものを、終生残すことは無かった。ただし、その事は、大平の歌文学的才能が人並みであったという事を意味するわけではない。即ち、明和5年に鈴屋に入門して以来、当初父棟隆と須賀直見の教助を受け、その後、宣長より懇切丁寧な和歌の指導を受けた大平は、嘱目されるべき歌人でもあった。松坂では、嶺松院歌会や遍照寺歌会等に、宣長と共に定期的に参加し、もちろん鈴屋歌会にも参加していた。また、宣長の『玉鉾百首』所収の和歌に大平が注釈を施した『玉鉾百首解』や、安永6年(1777)から寛政元年(1789)にかけて行われた、『万葉集』をめぐる鈴屋における会読および宣長の講義を大平が記録した『万葉集会評録』は、その講義・会読の筆録後、大平自身の『万葉集』講義や研究に本書を用い、自らの考察を随所に書き入れている。こうした歌に関する著述、あるいは『なぐさの浜づと』等の紀行文等は、大平の歌文学的才能を示すものであろう。また宣長同様、大平は歌風において古体と近体とに詠み分けた。古体の集を『藤垣内集』、近体の集を『稲葉集』という。前者の特徴は、古語を取り入れて歌を詠もうとする熱意が漲っているという点である。これは、国学派歌人に共通する志向であったとされる。後者の『稲葉集』は、大平の代表的な歌集であり、近世末期に盛んに刊行された類題集は、その影響を受けている。

■『三大考』をめぐる論争
 大平は本居学の忠実な祖述者であった、といった一般的イメージは、確かに正鵠を得るものであるが、この問題に対して詳細に立ち入ってみると、そこには師弟の間に微妙な学説の相違も否定できない。その一つが、『三大考』をめぐる論争であった。周知の如く、服部中庸が物した『三大考』は、神道的な宇宙観を古典と天文学とを整合することによって明らかにしたものであり、宣長の高い評価と特別の計らいに基づき『古事記伝』十七之巻の附巻として掲載された。この『三大考』に対して「皇国の古伝」を尊重する立場から痛烈な批判を加えたのが、後の文化3年(1806)に大平の門人となった外宮祠官の橋村正淳(橋村正兌)であった。正淳は『三大考』を弁駁すべく『三大考説弁』を物したが、当該書を精読した大平は、同書に頭書或いは付箋をして自己の見解を明らかにした。全体的に見ると大平は、正淳の『三大考説弁』を評価し、また正淳の当該書を契機として、大平自ら『三大考弁』を物している。そこでは、月を黄泉ノ国と同定する説や、月読尊と須佐之男命とを同一神と規定する『三大考』に示された中庸の学説に、反論している。 本居大平 MOTOORI OOHIRA , 10499 小伝 国伝 全 35952 2009/05/15 kouju108 2020/10/19 teshina 本登録 0 稲掛棟隆男、本居宣長養子、和歌山藩士 男 モトオリ オオヒラ / MOTOORI OOHIRA / 男 ■履歴 伊勢松坂の豆腐業田丸屋・稲垣棟隆の子。寛政11年(1799)に宣長の養子となる。享和元年(1801)に宣長が没すると、宣長の嫡子春庭が眼疾であったゆえ、翌二年、代わって大平が本居家を継いで紀州藩に仕えた。文化五年(1808)には『紀伊続風土記』撰進の命をうけ、翌年には住居を和歌山に移している。これ以降、本居家は伊勢と紀州と両地に分れた。天保元年(1830)に浜田孝国(本居内遠)を養子に迎えて後継者とした。

■学問動向 父棟隆は、本居宣長古参の門人であり、大平自身も明和5年(1768)に13歳で入門。その後は宣長について勉学する。 大平は和歌に長じたが、学問・歌学の面において宣長を越える事はなかったとされ、歌論書『村田春海に答へる書』では、賀茂真淵を理解していると思われるが、自説を述べるには至っていない。しかし、国学史上において大平が注目される点は、宣長の学問を祖述し、よく門人に教授し、かつ鈴屋社中を統率した点にある。大平が門人たちへ講義・歌会・書簡での指導を行なったこともあって、門人は1,000余人に達し、当時の国学界において随一の勢力を誇った。 ■歌文学 大平は、宣長や春庭の如く、独創的な著述といったものを、終生残すことは無かった。ただし、その事は、大平の歌文学的才能が人並みであったという事を意味するわけではない。即ち、明和5年に鈴屋に入門して以来、当初父棟隆と須賀直見の教助を受け、その後、宣長より懇切丁寧な和歌の指導を受けた大平は、嘱目されるべき歌人でもあった。松坂では、嶺松院歌会や遍照寺歌会等に、宣長と共に定期的に参加し、もちろん鈴屋歌会にも参加していた。また、宣長の『玉鉾百首』所収の和歌に大平が注釈を施した『玉鉾百首解』や、安永6年(1777)から寛政元年(1789)にかけて行われた、『万葉集』をめぐる鈴屋における会読および宣長の講義を大平が記録した『万葉集会評録』は、その講義・会読の筆録後、大平自身の『万葉集』講義や研究に本書を用い、自らの考察を随所に書き入れている。こうした歌に関する著述、あるいは『なぐさの浜づと』等の紀行文等は、大平の歌文学的才能を示すものであろう。また宣長同様、大平は歌風において古体と近体とに詠み分けた。古体の集を『藤垣内集』、近体の集を『稲葉集』という。前者の特徴は、古語を取り入れて歌を詠もうとする熱意が漲っているという点である。これは、国学派歌人に共通する志向であったとされる。後者の『稲葉集』は、大平の代表的な歌集であり、近世末期に盛んに刊行された類題集は、その影響を受けている。

■『三大考』をめぐる論争 大平は本居学の忠実な祖述者であった、といった一般的イメージは、確かに正鵠を得るものであるが、この問題に対して詳細に立ち入ってみると、そこには師弟の間に微妙な学説の相違も否定できない。その一つが、『三大考』をめぐる論争であった。周知の如く、服部中庸が物した『三大考』は、神道的な宇宙観を古典と天文学とを整合することによって明らかにしたものであり、宣長の高い評価と特別の計らいに基づき『古事記伝』十七之巻の附巻として掲載された。この『三大考』に対して「皇国の古伝」を尊重する立場から痛烈な批判を加えたのが、後の文化3年(1806)に大平の門人となった外宮祠官の橋村正淳(橋村正兌)であった。正淳は『三大考』を弁駁すべく『三大考説弁』を物したが、当該書を精読した大平は、同書に頭書或いは付箋をして自己の見解を明らかにした。全体的に見ると大平は、正淳の『三大考説弁』を評価し、また正淳の当該書を契機として、大平自ら『三大考弁』を物している。そこでは、月を黄泉ノ国と同定する説や、月読尊と須佐之男命とを同一神と規定する『三大考』に示された中庸の学説に、反論している。 もとおり おおひら,稲掛,三四右衛門,常松,十蔵,十太,田丸屋十介,藤垣内,茂穂,重穂,八十言霊大人 モトオリ オオヒラ 〔姓〕稲掛 【国2】 〔称〕三四右衛門 【国2】常松・十蔵・十太・田丸屋十介 【和】 〔名〕茂穂・重穂 〔号〕藤垣内 【国2】 〔諡〕八十言霊大人 【国2】 〔姓〕稲掛 【和】
〔称〕常松・十蔵・十太・田丸屋十介・三四右衛門 【和】
〔号〕藤垣内 【和】
〔名〕茂穂・重穂 【和】
〔諡〕八十言霊大人 【国2】 43878 宝暦6年<1756> 【国2】(一説に、宝暦6年<1756>2月17日 【書】) 9月11日 天保4年<1833>9月11日 【国2】 78歳 【国2】 1756 - 1833 伊勢松坂 , 紀伊和歌山 伊勢松坂 【国2】 伊勢松坂・紀伊和歌山 【国2】 伊勢松坂・紀伊和歌山 和歌山湊吹上寺 【国2】 須賀直見・本居宣長 【和】 須賀直見・本居宣長 【和】 国伝2,国伝続,国書人名辞典,和学者総覧.10499 〔古学 中〕
父と共に、鈴屋に学び、其塾に寓すること年久しく、其性篤実温厚にして、能く師説を確信しければ、竟に宣長の養子となり、本居氏をつがれ、三四右衛門と改む。後、紀殿の命にて、和歌山に移住を命ぜらる。然るに春庭病あり。加ふるに祖先の墳墓の地を去るに忍びず。もとより松坂も、紀殿の領地の内なれば、公に許しを得て、松坂の家に留り退隠す。後故ありて、春庭の男、有郷へ紀殿より別に俸を給へり。大平、門人に教ること、まめやかなりしかば、業を乞ふもの、千余人に及びしとぞ云。天保四年癸巳九月十一日、身まかりぬ。年七十八、和歌山吹上寺に葬る。私に八十言霊大人と諡す。長子建正、称を兵衛と云。次子清島、左衛士と称し、共に壮にして身まかりぬ。季子永平、中山美石、足代弘訓等の塾に入り学を修む。後本居家をつぐべき人なりしが、これも年わかくして終られしとぞ。 ・玉村禎祥 『本居大平の生涯』(近畿文化誌刊行会, 1987.5)
・簗瀬一雄 『本居宣長とその門流 第二』(和泉書院, 1990.4)
・大久保正 「本居大平の復古思想と宣長学の道統」(『国文学 解釈と鑑賞』, 昭和18) 国書,神大,和歌,国史,明治,神人,神事,神史,本居,大事典,名家 〔近著 七〕玉鉾百首解,八十浦の玉,名草の浜づと,己未紀行,和屋紀行,古言類聚,姓氏録考,答村田春海書,有馬日記,稲葉集,〔慶著 和〕万葉集合解,万葉集山常百首,百人一首梓弓,神楽歌新訳,藤垣内文集,夏己路毛,吉野の若葉,三大考弁,〔編者補〕折竹三四弁,よひもりの考,古学要,馬名合解,倭心三百首,近世三十六人撰,草枕の日記,藤垣内答問録ノ一, 藤垣内答問録ノ二,おかけまうでの日記, 史資料・解説 宝暦(1751-1764) 明和(1764-1772) 安永(1772-1781) 天明(1781-1789) 寛政(1789-1801) 享和(1801-1804) 文化(1804-1818) 文政(1818-1830) 天保(1830-1844)

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