荒木田久老

分野分類 CB宗教学・神道学
文化財分類 CB学術データベース
資料形式 CBテキストデータベース
大分類国学関連人物データベース
タイトル荒木田久老
+ヨミガナ / NAME / 性別アラキダ ヒサオユ / ARAKIDA HISAOYU / 男
+小見出し外宮・内宮権禰宜
+別名
+別称〔姓〕橋村・宇治 【和】
〔称〕弥三郎・主税 【国1】典膳・主殿・中書・斎 【和】
〔名〕正恭・正董 【国1】
〔号〕五十槻園 【国1】
+生年月日延享3年<1746> 【国1】(一説に、延享3年<1746>11月21日 【書】)
+没年月日文化元年<1804>8月14日 【国1】
+享年59歳 【国1】
+生国・住国伊勢度会郡 【和】
+生国・住国(現在地名)
+生国
+生国(現在地名)
+住国
+住国(現在地名)
+墓地名伊勢浦口天神丘墓地 【書】
+墓地現在地
+学統賀茂真淵,芝山重豊
+典拠国伝1,国書人名辞典,和学者総覧.475
+解説目次
+解説■履歴
 伊勢内宮権禰宜・国学者。外宮神職であった度会正身の第4子として生まれた。外祖父である秀世の嗣子となり、外宮権禰宜職を継承。その後実家に戻り、安永2年(1773)には位を返上し、また職も辞して、荒木田久世の継嗣として内宮権禰宜職に補された。寛政3年(1791)、従四位下。学者としての立場とともに、御師として信濃国など諸檀家の神宮崇敬を取り持つなど、神明の護持にも重要な役割を果たした。

■学問動向
 幼くして皇国の古典を研究し、明和元年(1764)に江戸へ下って賀茂真淵の門に入る。その後、家伝を踏まえながら刻苦勉励し、一家を成した。本居宣長歿後、鈴屋の学説を受けない者は、その大半が久老に師事しており、県居門の巨擘・大御所として斯界に重きをなした。門人には足代弘訓や久老の息子である久守、あるいは城戸千楯や渡辺重名がいる。
+特記事項■『万葉集』研究
 久老の国学研究の中核は『万葉集』である。自らも作歌は万葉調を主とした。同じく真淵の学統を継承した本居宣長が、『古事記』を中心として古道を闡明したのに対して、久老は『万葉集』を中心として古意を明らかにしたのである。その精神は、『槻の落葉日本後紀歌考』の自序に、「万葉をよく見ばおのづからいにしへ人になれ行て、その身その世その時にあるが如く、儒仏の道にまよはされぬいにしへ心に立かへりぬべし。さてこそ神代のことをうかがひしるべきなれ。」との真淵の教えを伝えていることに遺憾なく見出すことができる。万葉集研究に関する久老の著述に於いて、最も価値のあるものは、『万葉考槻の落葉』3巻であろう。これは、師の真淵が『万葉集』中、特に巻1・2を重視し、『万葉集考』に於いて此2巻を詳述したのを承けて、専ら巻3の註釈に傾注したのが『万葉考槻の落葉』である。その内容は先人乃至は師説の学説といえども批判すべき点は批判し、その説くところは概ね妥当にして往々創見を交えている。当該著述は久老43歳の天明8年(1788)に、自序及び芝山持豊の序文を附して、寛政10年(1798)に開板せられた。

■その他の著述
 これ以外の万葉に関する著作として『竹取翁歌解』1冊と命名された小冊と、久老の晩年の講義を弟子が筆録したものと思われる『万葉集聞書』とがある。更に随筆の『信濃漫録』1冊は、久老が晩年信州へ旅行したのを機会として物したものであるが、其内容の大半は、万葉に関わる考証的な随筆である。万葉以外の久老の著述では、『日本紀歌之解槻の落葉』3冊が重要である。これは、書紀の歌謡を註釈したものである。また久老の歌集には、『槻の落葉歌集』10巻がある。以上の如く久老の著述の大半は、万葉集及び古代歌謡の註釈にあった。

■神道関係に関わる業績
次に久老の神道関係の業績に触れてみたい。真淵の延喜式祝詞の註釈書『祝詞考』は、真淵最晩年の明和5年(1768)に脱稿したと推定される。従って、真淵の生前には刊行されず、門人によって書写されていた。宣長は、安永3年(1774)の時点で『祝詞考』全巻の書写をさせ校合を終え、以後真淵の学説の問題点を指摘し、批判するべく、寛政4年(1792)に『出雲国造神寿後釈』、寛政7年(1795)に『大祓詞後釈』を著した。一方、久老は、安永4年(1775)に『祝詞考』を書写し、寛政12年(1800)には、『祝詞考』の版下を書いて自ら刊行している。しかし、安永4年(1775)に久老によって書写された『祝詞考』(天理図書館蔵)には、著しい書入れがあり、宣長の著述の学説の書入があるほか、久老の学説も書入られており、更に、祝詞本文や注釈文にも改訂が試みられている。しかし版下執筆時には、真淵の注釈部分と対応しなくなることを恐れ、祝詞の本文は真淵の『祝詞考』に示された本文を変更していない。また宣長の『後釈』によって補正、改字された箇所も、版本『祝詞考』には採用されていない。一方写本で伝わった『祝詞考』と版本との違いは、写本においては祝詞本文の一部にしか訓が付されていないのに対して、版本では、本文全体に訓が付されているという事であろう。その中には、宣長の『後釈』を参考にしたと思われる箇所や、久老独自の訓に改めている箇所も存在する。注釈文の改訂は、久老本においては、宣長の学説が一旦は参考にされたが、版本では、注釈文の改訂箇所がほぼ本に復されている。しかし全体を見渡すと、用字、用語、表記、表現上の改訂や誤字、脱字の範囲内において、久老の手による改訂は存在する。従って、厳密な意味での賀茂真淵著『祝詞考』を知るには、久老の刊行した《校訂》『祝詞考』ではなく、門人たちによって書写された写本類によらなければならない。ちなみに、久老最晩年には、延喜式祝詞についての久老独自の説をまとめた「祝詞追考」を着手していたが未完に終ったものと推察される。
 なお寛政10年(1798)6月に物された久老宛の宣長の書簡に拠れば、当時久老が「外宮儀式帳」の注釈を試みようとしていたと推測される。
+参考文献
+史資料〔三十六家 上〕
幼より皇国の古典を研究す。ことに神典に於て、己が職とする所なれば、深くこれに精しからんことを欲し、専ら神代巻を究む。後賀茂真淵翁の門に入りて、益精力を尽し、大成す。殊に万葉集に於いて、大に研究し、県居翁の万葉考に次いで、槻の落葉を著す。
+史資料〈著作〉
+史資料〈碑文〉
+史資料〈その他〉
+辞書類古学,国書,神大,和歌,国史,神人,神事,神史,本居,大事典,名家
+和学者カード
-40357 国学関連人物データベース 36 1 CKP000017 荒木田久老 ARAKIDA HISAOYU  伊勢内宮権禰宜・国学者。外宮神職であった度会正身の第4子として生まれた。外祖父である秀世の嗣子となり、外宮権禰宜職を継承。その後実家に戻り、安永2年(1773)には位を返上し、また職も辞して、荒木田久世の継嗣として内宮権禰宜職に補された。寛政3年(1791)、従四位下。学者としての立場とともに、御師として信濃国など諸檀家の神宮崇敬を取り持つなど、神明の護持にも重要な役割を果たした。

■学問動向・門人
 幼くして皇国の古典を研究し、明和元年(1764)に江戸へ下って賀茂真淵の門に入る。その後、家伝を踏まえながら刻苦勉励し、一家を成した。本居宣長歿後、鈴屋の学説を受けない者は、その大半が久老に師事しており、県居門の巨擘・大御所として斯界に重きをなした。門人には足代弘訓や久老の息子である久守、あるいは城戸千楯や渡辺重名がいる。

■『万葉集』研究
 久老の国学研究の中核は『万葉集』である。自らも作歌は万葉調を主とした。同じく真淵の学統を継承した本居宣長が、『古事記』を中心として古道を闡明したのに対して、久老は『万葉集』を中心として古意を明らかにしたのである。その精神は、『槻の落葉日本後紀歌考』の自序に、「万葉をよく見ばおのづからいにしへ人になれ行て、その身その世その時にあるが如く、儒仏の道にまよはされぬいにしへ心に立かへりぬべし。さてこそ神代のことをうかがひしるべきなれ。」との真淵の教えを伝えていることに遺憾なく見出すことができる。万葉集研究に関する久老の著述に於いて、最も価値のあるものは、『万葉考槻の落葉』3巻であろう。これは、師の真淵が『万葉集』中、特に巻1・2を重視し、『万葉集考』に於いて此2巻を詳述したのを承けて、専ら巻3の註釈に傾注したのが『万葉考槻の落葉』である。その内容は先人乃至は師説の学説といえども批判すべき点は批判し、その説くところは概ね妥当にして往々創見を交えている。当該著述は久老43歳の天明8年(1788)に、自序及び芝山持豊の序文を附して、寛政10年(1798)に開板せられた。

■その他の著述
 これ以外の万葉に関する著作として『竹取翁歌解』1冊と命名された小冊と、久老の晩年の講義を弟子が筆録したものと思われる『万葉集聞書』とがある。更に随筆の『信濃漫録』1冊は、久老が晩年信州へ旅行したのを機会として物したものであるが、其内容の大半は、万葉に関わる考証的な随筆である。万葉以外の久老の著述では、『日本紀歌之解槻の落葉』3冊が重要である。これは、書紀の歌謡を註釈したものである。また久老の歌集には、『槻の落葉歌集』10巻がある。以上の如く久老の著述の大半は、万葉集及び古代歌謡の註釈にあった。

■神道関係に関わる業績
次に久老の神道関係の業績に触れてみたい。真淵の延喜式祝詞の註釈書『祝詞考』は、真淵最晩年の明和5年(1768)に脱稿したと推定される。従って、真淵の生前には刊行されず、門人によって書写されていた。宣長は、安永3年(1774)の時点で『祝詞考』全巻の書写をさせ校合を終え、以後真淵の学説の問題点を指摘し、批判するべく、寛政4年(1792)に『出雲国造神寿後釈』、寛政7年(1795)に『大祓詞後釈』を著した。一方、久老は、安永4年(1775)に『祝詞考』を書写し、寛政12年(1800)には、『祝詞考』の版下を書いて自ら刊行している。しかし、安永4年(1775)に久老によって書写された『祝詞考』(天理図書館蔵)には、著しい書入れがあり、宣長の著述の学説の書入があるほか、久老の学説も書入られており、更に、祝詞本文や注釈文にも改訂が試みられている。しかし版下執筆時には、真淵の注釈部分と対応しなくなることを恐れ、祝詞の本文は真淵の『祝詞考』に示された本文を変更していない。また宣長の『後釈』によって補正、改字された箇所も、版本『祝詞考』には採用されていない。一方写本で伝わった『祝詞考』と版本との違いは、写本においては祝詞本文の一部にしか訓が付されていないのに対して、版本では、本文全体に訓が付されているという事であろう。その中には、宣長の『後釈』を参考にしたと思われる箇所や、久老独自の訓に改めている箇所も存在する。注釈文の改訂は、久老本においては、宣長の学説が一旦は参考にされたが、版本では、注釈文の改訂箇所がほぼ本に復されている。しかし全体を見渡すと、用字、用語、表記、表現上の改訂や誤字、脱字の範囲内において、久老の手による改訂は存在する。従って、厳密な意味での賀茂真淵著『祝詞考』を知るには、久老の刊行した《校訂》『祝詞考』ではなく、門人たちによって書写された写本類によらなければならない。ちなみに、久老最晩年には、延喜式祝詞についての久老独自の説をまとめた「祝詞追考」を着手していたが未完に終ったものと推察される。
 なお寛政10年(1798)6月に物された久老宛の宣長の書簡に拠れば、当時久老が「外宮儀式帳」の注釈を試みようとしていたと推測される。 荒木田久老 ARAKIDA HISAOYU , 475 小伝 国伝 全 35948 2009/05/15 kouju108 2020/10/19 teshina 本登録 0 外宮・内宮権禰宜 男 アラキダ ヒサオユ / ARAKIDA HISAOYU / 男 ■履歴
 伊勢内宮権禰宜・国学者。外宮神職であった度会正身の第4子として生まれた。外祖父である秀世の嗣子となり、外宮権禰宜職を継承。その後実家に戻り、安永2年(1773)には位を返上し、また職も辞して、荒木田久世の継嗣として内宮権禰宜職に補された。寛政3年(1791)、従四位下。学者としての立場とともに、御師として信濃国など諸檀家の神宮崇敬を取り持つなど、神明の護持にも重要な役割を果たした。

■学問動向
 幼くして皇国の古典を研究し、明和元年(1764)に江戸へ下って賀茂真淵の門に入る。その後、家伝を踏まえながら刻苦勉励し、一家を成した。本居宣長歿後、鈴屋の学説を受けない者は、その大半が久老に師事しており、県居門の巨擘・大御所として斯界に重きをなした。門人には足代弘訓や久老の息子である久守、あるいは城戸千楯や渡辺重名がいる。 ■『万葉集』研究
 久老の国学研究の中核は『万葉集』である。自らも作歌は万葉調を主とした。同じく真淵の学統を継承した本居宣長が、『古事記』を中心として古道を闡明したのに対して、久老は『万葉集』を中心として古意を明らかにしたのである。その精神は、『槻の落葉日本後紀歌考』の自序に、「万葉をよく見ばおのづからいにしへ人になれ行て、その身その世その時にあるが如く、儒仏の道にまよはされぬいにしへ心に立かへりぬべし。さてこそ神代のことをうかがひしるべきなれ。」との真淵の教えを伝えていることに遺憾なく見出すことができる。万葉集研究に関する久老の著述に於いて、最も価値のあるものは、『万葉考槻の落葉』3巻であろう。これは、師の真淵が『万葉集』中、特に巻1・2を重視し、『万葉集考』に於いて此2巻を詳述したのを承けて、専ら巻3の註釈に傾注したのが『万葉考槻の落葉』である。その内容は先人乃至は師説の学説といえども批判すべき点は批判し、その説くところは概ね妥当にして往々創見を交えている。当該著述は久老43歳の天明8年(1788)に、自序及び芝山持豊の序文を附して、寛政10年(1798)に開板せられた。

■その他の著述
 これ以外の万葉に関する著作として『竹取翁歌解』1冊と命名された小冊と、久老の晩年の講義を弟子が筆録したものと思われる『万葉集聞書』とがある。更に随筆の『信濃漫録』1冊は、久老が晩年信州へ旅行したのを機会として物したものであるが、其内容の大半は、万葉に関わる考証的な随筆である。万葉以外の久老の著述では、『日本紀歌之解槻の落葉』3冊が重要である。これは、書紀の歌謡を註釈したものである。また久老の歌集には、『槻の落葉歌集』10巻がある。以上の如く久老の著述の大半は、万葉集及び古代歌謡の註釈にあった。

■神道関係に関わる業績
次に久老の神道関係の業績に触れてみたい。真淵の延喜式祝詞の註釈書『祝詞考』は、真淵最晩年の明和5年(1768)に脱稿したと推定される。従って、真淵の生前には刊行されず、門人によって書写されていた。宣長は、安永3年(1774)の時点で『祝詞考』全巻の書写をさせ校合を終え、以後真淵の学説の問題点を指摘し、批判するべく、寛政4年(1792)に『出雲国造神寿後釈』、寛政7年(1795)に『大祓詞後釈』を著した。一方、久老は、安永4年(1775)に『祝詞考』を書写し、寛政12年(1800)には、『祝詞考』の版下を書いて自ら刊行している。しかし、安永4年(1775)に久老によって書写された『祝詞考』(天理図書館蔵)には、著しい書入れがあり、宣長の著述の学説の書入があるほか、久老の学説も書入られており、更に、祝詞本文や注釈文にも改訂が試みられている。しかし版下執筆時には、真淵の注釈部分と対応しなくなることを恐れ、祝詞の本文は真淵の『祝詞考』に示された本文を変更していない。また宣長の『後釈』によって補正、改字された箇所も、版本『祝詞考』には採用されていない。一方写本で伝わった『祝詞考』と版本との違いは、写本においては祝詞本文の一部にしか訓が付されていないのに対して、版本では、本文全体に訓が付されているという事であろう。その中には、宣長の『後釈』を参考にしたと思われる箇所や、久老独自の訓に改めている箇所も存在する。注釈文の改訂は、久老本においては、宣長の学説が一旦は参考にされたが、版本では、注釈文の改訂箇所がほぼ本に復されている。しかし全体を見渡すと、用字、用語、表記、表現上の改訂や誤字、脱字の範囲内において、久老の手による改訂は存在する。従って、厳密な意味での賀茂真淵著『祝詞考』を知るには、久老の刊行した《校訂》『祝詞考』ではなく、門人たちによって書写された写本類によらなければならない。ちなみに、久老最晩年には、延喜式祝詞についての久老独自の説をまとめた「祝詞追考」を着手していたが未完に終ったものと推察される。
 なお寛政10年(1798)6月に物された久老宛の宣長の書簡に拠れば、当時久老が「外宮儀式帳」の注釈を試みようとしていたと推測される。 あらきだ ひさおゆ,橋村,宇治,正恭,弥三郎税正董,五十槻園 アラキダ ヒサオユ 〔姓〕橋村・宇治 【和】 〔称〕弥三郎・主税 【国1】典膳・主殿・中書・斎 【和】 〔名〕正恭・正董 【国1】 〔号〕五十槻園 【国1】 〔姓〕橋村・宇治 【和】
〔称〕弥三郎・主税 【国1】典膳・主殿・中書・斎 【和】
〔名〕正恭・正董 【国1】
〔号〕五十槻園 【国1】 11月26日,11月21日 延享3年<1746> 【国1】(一説に、延享3年<1746>11月21日 【書】) 8月14日 文化元年<1804>8月14日 【国1】 59歳 【国1】 1746 - 1804 伊勢国 伊勢度会郡 三重県 伊勢度会郡 【和】 伊勢度会郡 【和】 伊勢浦口天神丘墓地 【書】 賀茂真淵,芝山重豊 賀茂真淵 【国1】芝山重豊 【書】 国伝1,国書人名辞典,和学者総覧.475 〔三十六家 上〕
幼より皇国の古典を研究す。ことに神典に於て、己が職とする所なれば、深くこれに精しからんことを欲し、専ら神代巻を究む。後賀茂真淵翁の門に入りて、益精力を尽し、大成す。殊に万葉集に於いて、大に研究し、県居翁の万葉考に次いで、槻の落葉を著す。 ・松木素彦 「荒木田久老の研究」(上)(下)(『國學院雑誌』46-8・10,昭和15)
・松木素彦 「荒木田久老の研究補遺」(『國學院雑誌』48-12, 昭和17)
・伊藤正雄 「荒木田久老の生涯」(神宮司庁文化課編 『荒木田久老歌文集並伝記』, 神宮司庁, 1953)
・本澤雅史 「『祝詞考』の刊行と荒木田久老の祝詞研究」(『鈴屋学会報』9, 1992)
和学者総覧.475 古学,国書,神大,和歌,国史,神人,神事,神史,本居,大事典,名家 万葉考槻乃落葉,日本紀歌解,続日本紀歌解,竹取翁歌解,肥前風土記,豊後風土記,出雲風土記,和名類聚抄,祝詞考校訂,祝詞考追考,古言清濁辨論,難波旧地考,酒之古名区志之考(酒之古名区志考),邇飛麻那微校訂,歌意考校訂,文意考校訂,古器考校訂,古事記歌解,播磨下向日記 [近.6] 史資料・解説 延享(1744-1748) 寛延(1748-1751) 宝暦(1751-1764) 明和(1764-1772) 安永(1772-1781) 天明(1781-1789) 寛政(1789-1801) 享和(1801-1804) 文化(1804-1818)

この資料に関連する資料

PageTop