秋山玄氏提供写真(金魚池14) プリントNo.2781

金魚池風景14、モジに集めた金魚の移動、源一郎

プリントNo.02781
撮影日(和暦)昭和40年(1965)頃
場所1金魚池
公開解説 秋山金魚池(現在の博物館位置、猫実1-2-7)関係写真。モジに集めた金魚の移動、源一郎。
 秋山源一郎は、三代目、秋山吉五郎で、昭和元年・1925、生まれ、平成15年・2003、没。
 この金魚池について、昭和44年(1979)に刊行された『浦安町誌』上(浦安町誌編纂委員会編)には、次のように記載されている。
 金魚場
 猫実の東京湾に面したところに、一万二〇〇〇坪(三万九六〇〇平方メートル)に及ぶ大きな金魚の養魚場がある。町の人はこの養魚場を、秋山の金魚池と呼んでいる。ここは初代、秋山吉五郎が、大正一一年に買い取って金魚の養殖を始めたものである。氏はそれまで東京市砂町で金魚の養殖をしていた。
 明治末年頃、金魚が盛んにアメリカに向けて輸出されたが、当時アメリカ人は、一般に奇形的な形をした金魚を鑑賞して喜んでいた。とくにうちこぶをつけ、背びれのないランチュウのようなものや、リュウキンのようにまるくて尾の長い金魚が好まれた。吉五郎は、アメリカ人の好みを考え、アキニシキ(秋錦)をつくり出した。アキニシキは、容姿艶麗にして、水清き秋の池上に紅葉を散らしたような美しさであるところから、この名が付けられた。
 このほか、キャリコ、シュウスイ、ブンキンなどの新種を次々とつくり出し、全国各地の品評会に出品し、数々の賞を獲得した。今日、秋山金魚場からは、毎年数十万匹の金魚が全国各地に出荷され、関東一の金魚の養殖場として、その名が高い。
 また秋山玄氏のメモには、玄氏の父親、弥三氏(二代目、吉五郎、栄吾の弟。明治35年・1902~平成6年・1994)の語りが掲載されている。この写真のモジについては、以下の部分が参考になる。
 稚魚は10日もすると1センチくらいになるので、形のよい魚を選り分けなければならない。まず稚魚をモジに移す。モジに移しておくと、魚をお椀ですくいあげやすい。(中略)
 モジからお椀で直接稚魚を10匹ほどしゃくい挙げる。その中から形のよい魚を選び出し、飯台に移す。このとき使用するのは網でなく、アサリかハマグリの貝殻を竹で挟んだ特製さじなどがよい。
 
 
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