田辺一鶴真打昇進リサイタル チラシ
| 作成年月日(和暦) | 昭和48年 |
|---|---|
| 作成年(西暦) | 1973 |
| 作成者・差出人 | 田辺一鶴世和人会 |
| 資料群名 | 平成28年度以降寄贈・登録文書(数点のみの寄贈のもの) |
| 文書番号 | 227 |
| 公開解説 | 講談師・田辺一鶴の真打昇進お披露目会のチラシ。 田辺一鶴(本名・佐久間秀雄、1929~2009)は、「東京オリンピック」などの新作講談で人気を博し、「ヒゲの一鶴」として親しまれた講談師。 東京西ヶ原に生まれ、11歳で猫実四丁目にあった文房具屋「双葉屋」へ養子に入った。はじめは吃音を治すために講談師を志し、昭和29 年に十二代目田辺南鶴に入門した。昭和38年までを浦安で過ごした一鶴は、浦安を離れる際「真打になるまでは浦安へ戻らない」と決めたという。 本資料は、田辺一鶴が真打に昇進する際、中央公民館でリサイタルを開催した際のチラシ。この催しは、当時の熊川好生町長のポケットマネーで開催されたという。 この資料を寄贈いただいた、一鶴の弟子で講談師の田辺鶴遊氏によれば、多くの弟子も出演したが、真打昇進披露会で弟子も出演することは稀だという。講談の世界では、真打に昇進するということが弟子を取る資格を得ることであり、真打昇進以前に弟子を取っており、自らの披露目に何人もの弟子が存在している、出演者に名前を連ねている事自体が稀であった。この時点で一鶴は入門から二十年が経過しており、真打に昇進しておかしくない年数ではあったが、吃音を直すために入門したことから出世が遅くなっていた。 一鶴が真打でもないのに弟子を取る事を許されたのは、一鶴の出世が遅い事をかわいそうだと考えた師匠の田辺南鶴の温情によるものと、「講談師の人数が少なくなっており、このままでは講談は絶滅してしまう。自分が弟子を取って、将来の講談界と田辺派を盛んにしたい」という情熱を持っていた一鶴を、南鶴が後押ししたこと、真打ち昇進前のこの時点で、すでに一鶴が芸能界でスターになっていた事などが理由である。 |
| キーワード | 浦安亭 大衆芸能 中央公民館 芸能 講談 |
