ウキダル(コザラシ網用) 収蔵番号333

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浮き樽(コザラシ網用)

資料名(ヨミ)ウキダル
地方名ウキタル、タル
収蔵番号000333
使用地海(船の上)、浦安
公開解説イワシ(標準和名マイワシ)を捕獲するコザラシ網で使用した浮き樽。コザラシ網は、刺網類では最も規模の大きな網とされる。通常、刺網をコアミ(小網)と称するが、コザラシ網だけは、コアミの範疇に入らない漁法であると言われる。コザラシ網は、丈(網の高さ)が長く、聞き取り調査によると浦安では3間(約5.4m)~4間(約7.2m)あるとされ、1反の網の長さが15間(約27m)~20間(約36m)ほどで、それを10反(270m~360m)から15~16反(16反だと432m~576m)ほどつなげて仕掛けた。上層にいるイワシを捕獲するため、浮くように仕掛ける浮き刺網で、網の上部のところどころに、この浮き樽を付けた。かつては千葉県内全域で行われていた漁法で、東京内湾での漁期は、夏から秋、8~11月頃が主で、湾内に入ってきたイワシを漁獲した。丈の長さなどから、干潟浅海域など浅い場所で行う漁業ではなく、東京湾の中央部の深い場所、湾内一帯で行われた漁業とされている。
 昭和23年(1948)の調査では、千葉県で業態数が296、神奈川県で68、東京湾全体で364の数があげられており、浦安でも22業態数があったとされる。東京内湾の千葉県側では、浦安、船橋のほか、千葉から大貫(現、富津市)にかけて18の漁業会で、神奈川県側では、生麦(現、横浜市)から横須賀にかけて7の漁業会で、広く行われていた。
 乗員として浦安では5~6人、船橋では7~8人で行うとあり、浦安の聞き取り調査では「コザラシの船は3丁櫓で、4人ぐらいでやっていたが、かつては大勢のノリコで行うオオショク(大職)であった」とあり、昭和30年(1955)くらいまで行われていた漁とされる。
 現物資料としては、東邦大学漁村問題調査研究自主ゼミナールの方々により、猫実地区のものが収集されて、当館の収蔵資料となっている。(収蔵番号30071、30072)
 また国立民族学博物館には、猫実地区採集の鰯網1点(コザラシ網と思われる)と、堀江地区採集のコザラシ網2点、猫実地区採集のコザラシ網1点が収集されている。
 聞き取り調査によると、東京湾奥では、浦安よりも船橋で盛んであったようで、現在、巻網漁を行っている「大傳丸」は、昭和20年代半ばまで巻網漁でなくコザラシ網を行っていたとのことである。浦安、当代島の「仲重丸」の巻網漁に視察に来て、その後、コザラシ網から巻網(アグリ網)に変わったとの話が伝わっている。
 コザラシ網は文化13年(1816)の記録にみられる、江戸時代の「内湾三十八職」にも入っている古くから記録の残る漁法の一つで、この網をめぐっては、江戸時代から争論となっていることから、歴史(文献史)の分野では、以前から注目されてきた。特に東京湾口において春早いうちからコザラシ網でイワシを捕獲することで、湾内に回遊するイワシが減り、内湾のほかの漁業に差障りがあるとして、早春から7月15日までの漁を規制した文化7年(1810)の史料は有名である。
 明治時代に入ると、更に多くのコザラシ網に関する訴訟等が発生しており、史料も多数残されている。千葉県の漁業史研究家である渡辺栄一氏の筆による『船橋漁業生産史(一)』では、「小さらし網紛争史」として、江戸時代から明治に至る歴史を詳細に紹介しており、また最近では高林直樹氏による明治期の東京湾での小晒網紛争をまとめた論文などがある。
 これらの文献などをながめてみると、旧来、コザラシ網は富津、観音崎以北の東京内湾にはなかったとされ、明治30年(1897)頃から東京内湾域に急に普及していったもののようである。
 『東京湾漁場図』の刊行で著名な泉水宗助氏(東京湾漁業組合・千葉県頭取、千葉県会議員などを歴任)が、明治33年(1900)に行った講演の草稿には、「殊に小晒網は旧来より内湾にないとはいはれぬ。明治十六年頃より浦安村の当代島では専ら使用していた。又船橋町にも有たけれども、船橋の方は丈長網が専業で、小晒網は兼業で有たから、余り人目には触れなかった。又当組合の中にも桜井抔は房州地方と漁業上の交際が頻繁であるから、房州より小晒網を借て来りて使用したことが連年あった。」(「泉水宗助氏の小晒網擁護論―明治三十三年講演草稿―」、『船橋漁業生産史(一)』所収)、と記されている。
 ここには、「明治16年(1883)頃には、当代島で使用していた」との記述がある。民俗事例では、当代島地区は六人網・アグリ網など巻網漁業が盛んで、コザラシ網を行っていたとの証言は聞くことができないが、明治時代の早い時期には、当代島地区でコザラシ網が行われていたのかもしれない。
 そのほか船橋の記録では、コザラシ網は明治32年(1899)に使用はじめたとか、大正時代の中ごろから始まり、巻網である六人網に代わっていき、大正10年(1921)~15年(1926)、大戦後(1945)~昭和25年(1950)頃が盛んであった、などとある。
 また市原市椎津の記録では、コザラシ網は明治中頃(日清戦争後)より始められたが、明治末年、アグリ網および六人網等に圧迫されてきて漁場の争奪が始まり、10年間も争いを続けたが結局敗れ、操業を一時中絶、大正初期に再行された、との話も記されている。東京内湾では、明治時代以降、動力船の導入やイワシの豊漁不漁などの変動等の影響を受けながら、イワシをとる漁法にも様々な変化があったことが推測できる。
 なお『東京湾漁業生産実態調査』第二巻(財団法人水産研究会編)の船橋漁業会の項で、「小晒漁業の状況」が紹介されていますので、抜粋しておく。
〔附表〕 第十 漁業経営の実情及び科学技術
(1)小晒漁業の状況
(a)変遷:技術の面では大差はないが、漁船は和船より動力船となるにつれて外へ出る様になった。(操業と共に)和船時代には五井より(7~8年前、注:昭和10年代か)江戸川以北で漁業をしたが、現在はとれない。(専用漁場内より、漁場外へと進んで来た)漁獲は昔よりずっと増加して居り、和船時代には帆掛手漕で現在の数十分の一の漁獲量であった。即ち15反で1日10樽以下であった。資材面では昔の方が多い。
(b)沿革:規則が設けられて居た事及び岸に魚が出なくなる事により小晒は出来なかったが、その規則とは(1)大堀-鶴見以南は不可 (2)バンヅ-羽田以南は不可 (3)五井-ガスターク以南は不可というのであった。現在では干汐時6尋以外とし、漁船は10t15Hp焼玉 漁具150尋、丈30反14節としている。但し、干汐時6尋以外は実行されて居ない。
(c)千葉以南に小晒多く船橋は岸に少しある。組合の漁船35隻(新規5隻、未8隻)ある。漁場の中心と云ったものなく、東京湾内一帯を常に活動する。
(d)海況と漁況:
 漁期は1~4月を除いて5~10月に行われ、11月は漁獲のある時には出漁するが、平常の状態の海況の時は出漁船は5隻位である。昨年(注、昭和21年・1946年)は大漁で特に外来者の漁期は長かった。5月より10月までの海況と漁況との関係は次の通りである。
(1)風は秋の北風、東北風がよく、春に於ても汐流の関係で天候を選ぶ。網は魚が深みへ逃げるために陸に平行に張る。風向に依て風下に、凪の時には汐下へ張る。之れは網を延ばす為である。
(2)汐流:夏は寒流がよく、北風の時は南より北に、南風の時は南へ汐が通るために漁は安定しない。秋は暖流の方がよい。
(3)雨の時は休漁
(4)大水は魚が居なくなって漁には悪い。本年(注、昭和22年・1947年)は不漁。
(5)赤汐はよく(餌があるため)、餌としては黒色を帯びたものがよい。
(6)暖い年は正月まで魚が来遊して、漁には適し、夏の暑気の強い時は不漁である。
(7)漁は浅い所の方がよく、又水質の悪化は大きく影響する。
(e)漁業者:貝、海苔との兼業者が多い。打瀬、カニもある。小晒業者のためには打瀬の動力化を禁止し、貝を一年中採取する様にして専業者を作るべきである。
(f)漁獲高は9月が最大で供出は2966貫。
 以上は昭和23年の調査であるが、当時すでに動力船の導入により、漁場が東京湾内一帯に広がってきていることが記されている。和船時代、昭和10年代、東京湾奥では五井-江戸川河口以北の海域で行われていたようである。
※なお、船橋でのコザラシ網漁法の詳細については、下記報告書に詳しく掲載されているので参照のこと。
○船橋市民俗文化財分布緊急調査団編集 平成7年(1995)『船橋市民俗文化財緊急調査報告 第5次-1 -船橋浦の漁業-』 船橋市教育委員会発行
使用年代昭和
キーワード刺し網、サシアミ、刺網、小網

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