博物館所蔵 №3235
浦安第一漁業協同組合、建物 積まれた海苔箱たち
作品名 | 漁村文化研究会、撮影写真(第一組合事務所) |
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プリントNo. | 03235 |
撮影日(和暦) | 昭和54年(1979)8月29日 |
場所1 | 第一組合、現、猫実2-1-1 |
公開解説 | 解体直前の浦安第一漁業協同組合、事務所。組合の室内、海苔箱が積まれた状態となっていた。漁村文化研究会員が第一組合事務所解体の話を聞きつけ、資料収集のため訪問した際に撮影したもの。資料収集過程について、『浦安の漁撈用具1』から抜粋する。 4.浦安第一漁業協同組合関係資料 浦安では、昭和30年(1955)に浦安町漁業協同組合が分裂し、浦安町漁業協同組合(通称、本組合)と浦安第一漁業協同組合(通称、第一組合)の2つの組織となりました。 東京湾岸地区でも同地区に2つの漁業協同組合が存在した例は浦安が唯一です。この経緯については、昭和49年(1974)に刊行された『浦安町誌』下巻では、次のように記しています。 昭和二四年九月、それまでの浦安町漁業会は、浦安町漁業協同組合に切り替えられた。 改組後は,先ず旧組合資産の清算から仕事と始めることになり、大塚平吉等一二名を資産精算人に選び、旧漁業会の資産整理に着手した。ところがこの資産の引き継ぎ問題から組合内に二つの底流が動めき始め、その上、その頃たまたま起こった地先海面の干拓問題等から内紛を生じ、その結果、浦安町漁業協同組合は遂に二つの組合に分裂することになった。浦安第一漁業協同組合はこのような経過を経て、浦安町漁業協同組合から独立し、昭和三〇年七月一二日から発足した。設立当時の組合員は四三二名で、事務所を猫実一八一番地に設けた。(中略) 昭和三六年三月、本組合では猫実一四六九番地に敷地九五・九六坪(三一六・六七平方メートル)を求め、ここに木造モルタル造平家建事務所一〇坪(三三平方メートル)と水産センターを建設し、乾海苔取引きのため共販所を建設した。 第一組合は精算時に時間がかかり、偶然にも昭和50年代はじめまで組合事務所が残っていました。組合のあった浦安町猫実一四六九番地は、現在の猫実2丁目1番1号地(現在、浦安市適応指導教室、前は浦安市環境事業課作業員詰所)です。 昭和51年(1976)に制作された日本大学映画学科の学生による卒業制作映画「海を追われる漁民たち~東京湾・湾奥部からの報告~」(演出:羽鳥孝一、撮影:馬場良平)にも、当時の組合の様子が撮影されています。映画では、ある老人が組合の番をしており、「来るのが5年遅かった」と撮影隊に述べる印象深いシーンもありました。日本大学の映画撮影隊が訪ねた後、研究会員も昭和54年(1979)に組合事務所を訪ね、処分されるはずの資料を収集したとのことです。第一漁協で使用されていた海苔箱(ヒラバコ)のほか、木札、共販所で使用されたと思われる海苔問屋の表示板、大漁旗(祝旗)など、組合事務所の解体とともに消え去る運命であった資料たちが偶然にも残ることになりました。 また調査時、解体直前の、第一組合の建物写真が27枚残っており、解体前の外観および内部がわかる非常に貴重な資料となっています。また収集した当時の記憶を、研究会員にお聞きしてみました。 尾上:採集した当時、覚えていることを教えてください。 西野:写真の日付は1979年、昭和54年8月29日です。確か栗山さんが、「第一組合の建物が壊される」という情報をもらってきたんじゃないかな。 中西:たぶん、そう。 西野:「第一組合の建物がもう、なくなるよ」って。 栗山:「今なら、いろいろなものを捨ててるから、何かあれば、もらえるんじゃないか」って聞いて、行ってみたんだよね。 西野:案内してくれたのが、ここに書いてあるけど金子巳五平さん、メモには金子さんの名前が出ている。写真をみると「会計理事」って札がみえますね。 栗山:あのころは、1対1でなく、老人クラブに行って、大勢に話を聞くことが多かった。そこで組合事務所解体の情報を聞いたんだろうね。 西野:案内してくれたのは金子さんだよね。ここに映っているけど。どうも、この写真を撮ったのは私なんですが、当日のことはあまり覚えていないんです。私のメモが書いてあるので、たぶん自分が全部撮ったんですね。 尾上:1階も2階も写っていますね。2階は海苔の入札場のようですが。このときに資料をもらってきたのですか? 栗山:行ったのは1回か2回だよ。このときにもらってきたんだろうか。車で行ったんだよなあ。自分が免許をとったのが昭和51年(1976)だから、レンタカーで行ったのかなあ。 西野:このときに話があって、後日、トラックか何かでもらったかもしれないけど。このときに、資料をもらえる話になっていたのは確かです。結構たくさんもらったよね、とくに箱(海苔箱)、いわゆるヒラバコね。この写真にどさっと写っているでしょう。 栗山:たくさんもらったね。 西野:昭和54年(1979)だから、もう結婚して、クラス担任持っていたときだから。(西野さんは元高校教諭) 尾上:うーん、私、当時まだ子ども、中学生だったなあ(一同、ため息)。学校が休みの、だから8月29日なんですね。 西野:夏休みの最後に行ったんだね。こんなこと、夏休みじゃないと行けなかったですよ。 尾上:「これとこれが欲しい」って言って、「ばっ」ともらってきたんですか。 西野:「どれもいらない」っていうから、そのまま持ってきちゃった。 栗山:だけど、あの標本類、もらってくればよかったね~。 西野:そう、今でも心残りなのが標本ビン。この写真にも写ってるでしょ。たくさんの標本ビンがあった。標本ビンのことだけは、よく覚えているんです。 尾上:貝の標本ですか? 西野:貝も魚もあった。貝も、大きいやつから小さいやつまでの標本があった。 尾上:標本はもらってこなかったんですね。うーん、今では幻の、浦安のハマグリの標本もあったはずですね。 西野:自分の専門(生物学)なので、「標本ビン、もらってこれたらなあ~」と思ったけど。いかんとも、置き場所もないし、あのときは、どうしようもなかった。あの分量で持って帰って、どこに保管するのかって。 尾上:そのとき中西さんは。 中西:1回は行ったと思うけど、案内されたのは覚えていないなあ。 栗山:あれだけの量だから、運ぶとき、一緒だったと思うけどね・・。 改めて資料が残るときには、機会とタイミングがあるものだと痛感します。研究会員は組合事務所解体の話を聞きつけ、解体直前の組合事務所を訪ね、収集できる範囲で、資料を収集したとのことでした。偶然にも、関心ある人間が収集したものが後世に残されたことになります。また資料がきちんとしたデータとともに博物館などに収蔵されれば、後に続く人たちが必ず新たな調査研究をして、その次の世代へと、つないでいってくれるはずです。資料収集、整理、調査研究の繰り返しがいかに重要かを、改めて本資料群を眺めて、ひしひしと感じた次第です。資料が後世に残り、伝えられたことに感謝したく思います。 |
キーワード | 第一組合、漁協 |