秋山玄氏提供写真(金魚池12)海楽園 プリントNo.2779

金魚池風景12、海楽園で遊ぶ人たち

プリントNo.02779
撮影日(和暦)昭和10年(1935)頃
場所1海楽園
公開解説 秋山金魚池(現在の博物館位置、猫実1-2-7)関係写真。海楽園で遊ぶ人たち。
 海楽園について、『浦安町誌』上(昭和44年・1969、浦安町誌編纂委員会編)には、「昭和九年に猫実東地先海面に船溜りができたら、その後、この船溜りは海楽園と呼ばれるようになり、行楽客のための売店、休憩所などの施設が設けられ、園内で水泳を楽しむ者や、ボートを漕いで遊ぶ若者達で賑わった。
 また同年、大三角に、海水浴客の休憩所として海の家が建てられてから、江戸川尻で遊泳する者も多くなった。」と記されている。
 また秋山玄氏の記録には、次のようにも記載されている。
「隣接する海楽園は、そもそもベカ舟などの小舟の停泊所として建設したが、自宅から遠いという不便さから利用者が減り、その後、海水浴場となる。
 開園は昭和の初めであろう。夏になると桟敷が建てられ、東京からの納涼客を呼び込む。(中略)
 海水浴場は潮の出入り口以外は土手が築かれ、波の静かな入り江である。安全な遊び場である。
 海楽園の外側では潮干狩りができる。東京からスーツでやってきた客が、そのままアサリやハマグリ取りに出かけていく。
 戦争が始まるといつしか、この遊び場は寂れていく。末期にここに高射砲が備えられ、立ち入り禁止地区となる。
 浦安海岸は、昭和40年代に大規模の埋め立てがあり、浦安の町の面積は4倍になる。町の人口は激増し、浦安市となる。新たな市庁舎(旧庁舎)が旧海楽園の位置に立つ。この建築工事で地下水がくみ上げられると金魚池の水位は下がり、池としての機能がなくなる。
 昭和48年をもって、この地での50年の金魚養殖の事業に幕を下ろす。
 1部池の跡に市立東小学校が、2部池跡に郷土博物館が建っている。」
キーワード秋山吉五郎 秋山養魚場 秋山金魚池

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