秋山玄氏提供写真(金魚池1) プリントNo.2770

金魚池風景1、境川岸の餌炊き場煙突からの撮影。

プリントNo.02770
撮影日(和暦)開設当初
場所1境川岸の餌炊き場煙突からの撮影 
公開解説 秋山金魚池(現在の博物館位置、猫実1-2-7)関係写真。境川岸の餌炊き場煙突からの撮影。左側手前が作業場で、奥が住居。境川から住居を通り、1部池までの土手は桜並木。また境川と池の境界土手、および東京湾堤防の池側斜面には黒松が植えてあった。この写真は昭和初めのもので、その後、池は小さく区分される。手前の池は最も大きく、鯉(コイ)が放たれていた。

以下、提供者、秋山玄氏のメモより。

浦安金魚池の変遷
浦安の金魚池(平成28年10月31日)
【序文】
 秋山吉五郎が明治18年(1885)11月に、東京深川区千田町525番地(現在の江東区千石二丁目8番9号)で金魚の養殖を始める。
 その後、大雨や台風による洪水にしばしば遭遇し、金魚を大量に流失する。そして大正12年(1923)の関東大震災に遭う。この前後に地域の近代化開発の嵐を受け、金魚池の存在が危ぶまれはじめ、金魚の新天地を行徳や浦安方面に求める。
 養魚場が営業所へと進化していた深川千石の店も、昭和20年(1945)の東京大空襲によって全焼し、これで深川の地の"秋山金魚"は明治18年から60年間の幕を閉じる。
 大正12年2月に浦安町猫実1619番地に7.4ヘクタールの養魚場を開設し、その後、50年間この地で生産した魚を深川営業所へと送る。
 昭和30年に入ると浦安町は広範囲に埋め立てが始まり、さらに近接地の高層ビル建設によって養魚場の立地条件が悪化する。深川から続いた88年間の金魚養殖事業も、昭和48年(1973)をもって終わる。
【系図】
秋山吉五郎───┬─2代目吉五郎・ 栄吾───── 3代目吉五郎・源一郎
(1868~1929)│ (1896~1960)       (1925~2003)
M・0~S・4  │ M・29~S・35      S・0~H・15
    │
   └─弥 三─────────── 玄(筆者)
  (1902~1994) (1931~ )
           M・35~H・6          S・6~

 1 地の果て浦安に
 "深川十万坪"と言われた江戸庶民のゴミ捨て場も、享保8年(1723)に千田庄兵衛の尽力によって開発されて千田新田となる。現在の江東区千石の地である。
 この地域は池が多く掘られ、金魚の養殖が広く行われている。新田開発されたといっても湿地帯であることには変わりなく、住居を新築するには盛り土をしなければならなかった。その跡地が池なのである。
 明治元年生まれの秋山吉五郎も、明治18年(1885)に深川区千田町525番地で金魚の養殖を始める。
 大正5年(1916)に東京府立の工業学校と小学校の新設の話が持ち上がり、そこで得た移転料で千葉県行徳町の宮内庁鴨場北側に5000坪の養魚場を整備する。しかし、その地域住民は特設電話架設に反対する。
 生き物を扱う事業の商い契約は短時間に決めるので、電話や電報の施設なしでは成り立たない。
 そうこうしていると、大正10年(1921)に押上から錦糸堀を通って洲崎に至る路線電車道路の設置計画が決まる。これによって養魚池など650坪が売収される。
 大正12年2月に千葉県東葛飾郡浦安町大字猫実の1.800坪を手始めに、14年(1925)には8町歩に及ぶ大養魚池ができる。
 1部池(現、東小学校付近) 2,900坪
 2部池(現、郷土博物館付近)19,400坪
計 7.36ヘクタール
 ちなみに、東京ドームの広さは4.7ヘクタールである。
 その間の大正12年(1923)9月1日に関東大震災が興る。その後の深川の復興計画は、この地を碁盤に目のように整備する。これで金魚池の存続は完全に否定され、ここでの生き残る術はなかった。吉五郎に一大転換の機会が与えられたのである。
 浦安の町は利根川水系の分流である江戸川を境にして東京の江戸川区と向き合っている。江戸川の三角州に出来た町である。
 大塚芳郎氏より譲渡された1部池と、山崎要蔵氏から譲渡された2部池から成り立つ。東京からは浦安橋を渡って入るが、この橋は昭和15年(1940)に開通している。それまでは長島と浦安の堀江間に渡し舟があったが、その長島には江戸川区三角から徒歩か、雷(いかずき)経由長島の道しかなかった。今井橋は大正元年(1912)に木造橋が開通している。
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