博物館所蔵 №2545

4Hクラブ

プリントNo.02545
撮影日(和暦)昭和23年(1948)頃
場所1浦安
公開解説戦後、農村の青年により全国で組織された四Hクラブ。浦安でも組織され、そのときの写真。浦安町四Hクラブについては、『浦安町誌 下』(昭和49年・1974)に詳しく紹介されている。
 四Hクラブは農村生活の改善を図り、青年としての修養を積み、農業経営に関する知識及び農業に関する技術を修得、練磨することを目的とする農家の若者達の組織で、青年が健全な社会人として生活していくためには、明晰な頭脳、親切な心、人のために役立つ手、生活向上のための健康な身体などが大切で、頭(ヘッド)、心(ハート)、手(ハンド)、健康(ヘルス)を意味する四つの言葉の頭文字がHになるところから、この名がついたもので、アメリカ合衆国から発して各国に広がった。
 [4つのHの意味については、寄贈者の話によると、「1.HAND(人のために役立つ腕) 2.HELTH(誰にも負けない丈夫な体) 3.HEAD(明晰なる頭脳) 4.HEAT(思いやりのある心)」という意味があるとのこと。四葉のクローバーのシンボルマークは、この4つのHからデザインされたものであるという。]
 わが国では戦後、占領軍の指導により、農林省が実施した農業改良普及行政の一環として、各市町村に四Hクラブが設立されるようになった。

 四Hクラブは、主として一六歳から二五歳までの独身の青年男女が、自主的に組織したものである。
 浦安町青年議会議員、大塚功、田中茂、相馬浜吉、小林清造、須賀大吉、並びに杉山徳生、斎藤宗立、熊川恵美子、田中千代子、宇田川美恵子、宮崎倭文江等は、農業技術を修得すると共に、社会教養を身につけ、また農業を営む青年相互の親睦を密にすべく計画し、農家の師弟に呼びかけたところ、三十数名の賛同者を得たので昭和二五年四月、浦安町四Hクラブを結成した。
 本クラブは堀江、猫実、当代島の三つの支部に分かれている。クラブでは、生産増強部、文化部、生活改善部、経営改良部などの専門部会を設け、次の事業を行うこととなった。
一 農村青年としての修養に必要な事業
二 農村文化の向上に必要な事業
三 生産増強に必要な事業
四 農業経営の改善に必要な事業
五 生活改良に必要な事業
六 その他、農村生活の幸福増進に必要な事業
 クラブでは実践活動の一つとして、町から試験田を借り受け、会員の共同作業により多大の収益をあげたほか、本町で初めて水稲の保温折衷苗代作りを実施し、成果をあげた。
 昭和二七年には浦安町婦人の会、同青年団と合議し、町当局に懇請し、社会教育の一環として、同年一月一五日に成人式を挙行した。
 また関係団体と協力し、青年学級を開設すべく奔走し、同年七月五日から開講の運びとなった。
 クラブでは冠婚葬祭の簡素化を図るべく、浦安町婦人の会と協力し、しばしば生活改善講習会を開催して、生活の合理化を図り、また機関紙「浦安四H」を発行して、会員の相互学修と資質の向上に努めた。
 昭和二八年四月には、本クラブの提唱により、郡下の四Hクラブは合同して、東葛飾郡四Hクラブを結成した。
 クラブ発足時の主任は須賀大吉であったが、その後、主任は杉山徳生、熊川登、宇田川一郎と替わった。
 昭和二七年三月には、供出米の出荷に尽力し、千葉県知事より感謝状を、同年一〇月には、農林省農業改良局長より優良クラブ賞を、同二八年四月には、千葉県四Hクラブ連合会より表彰状を、それぞれ受賞した。
 このように部員が協力して農業技術の改良につとめ、あるいは町の社会教育活動に積極的に協力し、その実績はみるべきものがあったが、昭和三〇年九月に解散してしまった。

 この写真は、東葛飾郡の発表会で発表して優勝したときのもの。このあと、県大会まで出場した。
4Hクラブは、戦後働きながらレクリエーションも楽しんでやろう、ということで、キャンプをやったり、フォークダンスをやったり、山登りをやったりと、いろいろと楽しい活動を行っていたようだ。 
キーワード農業

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