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古勝森

分類1民俗
分類2信仰
ヨミくがちむい
解説古勝森がある一帯は字峯窪(みねくぼ)といいます。すぐ横の保育所のある場所は下殿地(しゅうとのち)といい、亀津に2カ所ある殿地の一つです【注1】。古勝森は明治12年の記録には塚敷地(官有地)と書かれています。10坪ほどの小高い石垣の森が人工的に作られていて、そこには一基の石碑が建立され、4つの面に次のように記【注2】されています。
秋の彼岸の中日には20世帯ほどの人たちが今も一重一瓶で祭りをしています。亀津は幾度となく大火に見舞われていますが、その度にこの地点で延焼を食い止めたことから、森の神には悪疫や災禍の難に会わないご利益があるとして今でも信仰が途切れることがありません。
なお、「此塚先祖古勝墓所(このつかせんぞくがちぼしょ)」とあることから古勝という人物が葬られていると思われますが、この人についての伝承は残っていません【注3】。
【注1】殿地(とのち)
「殿地」とは、琉球支配時代からの役人(土地の支配者)やノロの屋敷を言います。
【注2】碑文(意訳)
この塚は先祖古勝の墓所である。公務で文政8年(1825)に三様(島津 重蒙(しまづ しげひで)など三人)の御慶事のため上国し、また天保13年(1842)にも公用により上国したので、山川で作らせ、翌年の春に帰島。菩提としてこれを建立する。伊仙あつかい與人(よひと) 紀喜美實(ききみざね)三徳
【注3】
古勝に関する資料としては伊仙町の『永喜家家譜(えいきけかふ)』に「佐喜間(さきま。1650生れ)の先妻は井之川村の旧與人古勝の娘である」、「井之川の上野伊宝(17世紀前半)の妻は伊仙本與人古勝の妹であり、甥の本與人古勝の妻は永良部大親(えらぶふううや)の孫大勝(おおがち)の妹である」という記載があります。しかし、この人が古勝墓に祀られる古勝と同一人物かどうかは不明です。

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