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美代願山
| 分類1 | 遺跡 |
|---|---|
| 分類2 | 古代 |
| ヨミ | みょうがんやま |
| 解説 | 徳之島町亀津字美代願山にある。低位段丘の先端部分の南側斜面で、標高約10メートル前後の場所にある。周辺には、亀津保育園や徳之島町立亀津中学校があり、北東側には、大瀬川が流れています。また、昭和40年代の臨海埋め立て工事が行われるまでは、海岸まで約300メートルでした。伝承では、美代願按司屋敷があったとも言われています。 1931(昭和6)年2月、伊仙町面縄(おもなわ)出身で、当時鹿児島朝日(現在の南日本新聞)の通信員をしていた広瀬祐良(ゆうりょう)が発見し、当時早稲田大学の学生で入れ墨※1の調査で来島していた小原一夫と発掘調査が実施され、土器、石器、貝製品、貝殻や動物骨などの自然遺物が発見されています。現在の考古学の成果に照らし合わせると今から1500年前の古墳時代の遺跡だったと考えられます。 戦前は、大学や研究機関が少なく、発掘された資料は、大山史前学研究所※2に移され、詳細な研究が行われる予定でした。しかし、1945年4月の東京大空襲により焼失してしまい、その成果は謎のままとなってしまいました。 廣瀬さんは、考古学以外にも民俗学、人類学、文献史学を独学で勉強し、自身が小学校の先生をしていたこともあり、郷土史をどのようにして学校の教育に取り入れるかを考えていました。自らが徳之島で調査した成果を『昭和八年度調査 郷土史研究 徳之島ノ部』としてまとめました。 ※1 南西諸島では、かつて女性が成人になった証として指の背、手の甲や手首に入墨を入れる習慣がありました。 ※2 大山史前学研究所は、鹿児島県出身の陸軍大将大山巌の息子、大山柏が開設した私設研究所。 |