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武州丸慰霊碑

分類1史跡
分類2近現代
ヨミぶしゅうまるいれいひ
解説昭和19年9月のことです。徳之島には1万人ほどの兵隊が配属され、食料が不足したことや島での戦闘が近いこともあり、国の命令で子どもたちは、本土に疎開させることになりました。武州丸も亀徳(かめとく)や井之川(いのかわ)の年寄りや子どもたち152名を乗せて亀徳を出港し、古仁屋(こにや)を経由して鹿児島を目指しました。「行きたくない。」と言って泣く子どもたちを叱りつけるようにして乗せたと言います。途中の海にはアメリカの潜水艦がうようよいましたが、親たちもまだ島にいるよりも安全だと思っていたのです。「明日は鹿児島に着く。」とようやくホッとしかけたころ、武州丸は魚雷を受けました。あっという間に沈んだそうです。時々潜水艦の潜望鏡が見えたと言いますから、ずっと武州丸の船団を追いかけていたのでしょう。わずかに数名が助かっただけでした。この事件は公表されず、戦後になっても国からの補償はありませんでした。

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