/2

カンニンウシシギャデラ

分類1民俗
分類2信仰
ヨミかんにんうししぎゃでら
解説このテラ(仏教の寺ではない)は琉球王朝時代に神之嶺(かみのみね)を治めていたカンニンウシシギャの館【注1】の跡に祠を建てて霊を祀り、集落の守護神として拝み始めたのが始まりだと伝えられています。ウシシギャは武芸に優れ、人徳が秀でており、広くその名は知れ渡っていました。「諸田(しょだ)ネータラカンジャクとのカンニン泉での争い」や「息子坊次兼(ぼうじがね。ボウタガネとも)の沖縄遠征による武芸試合」にまつわる伝説等は今でも語り継がれ、これらの物語からもウシシギャという人物を窺い知ることができます。
伝説によると、当時カンニンウシシギャは、琉球王に親薩摩派ではないかとして警戒されていたそうです。しかも、王の命令で行われた首里城での武芸試合では、ウシシギャの代役として出場した息子を殺されてしまい、琉球王に対する恨みを持っていました。このため、程なくして起きた薩摩藩琉球侵攻の際には薩摩方につくことを決意します。ところが秋徳湊(あきとくみなと。現亀徳港)に攻め寄せた薩摩軍を見ると気持ちが変わり、島人を主体とする琉球軍に合流して激しく抵抗しました。しかし、この戦で多くの手勢を失ってしまい、このことを悔やんだウシシギャは、神之嶺の館に戻ると自害したと伝えられています【注2】。
ウシシギャの墓は、ここの南西およそ200mの小高い林の中にあり、積石(つみいし)による古風な造りの墓になっています。
【注1】カンニンウシシギャの館
この館跡の地は「グシコ」とよばれる。(「島の郷土文化」徳富重成)
【注2】
このほかにも諸説の伝承があります。(参)前田長英『潮鳴島(しゅなりじま)』、水野修『徳之島民話集』他

PageTop