手榴弾(陶器)
| 分類番号 | 00000639-000 |
|---|---|
| 分類 | 資料 |
| 解説 | 手投げ爆弾。近接戦闘で有効な兵器。通称「四ビ弾」(皇紀2604年=1944(昭和19)年製造か?)高さ8cm、直径7.2cm。陶製。寄贈者は、激戦地硫黄島から、九死に一生を得た数少ない生存者である。硫黄島戦没者遺骨収集団に十数回参加。1984(昭和59)年に持ち帰ったもの。出所場所は北地区温泉浜壕内。手榴弾が陶製とは、当時の金属資源不足を物語るものである。 【寄贈者A氏】硫黄島における生存率5%の生還者であるA氏が後年、語っていた内容を、2025(令和7)年8月遺族の方より、伺うことができた。概略は次の通り。 ・1923(大正12)年広島生まれのA氏は、16歳で呉の海軍工廠に勤務(動員ではなく)、戦艦大和の砲塔を作る工程や、客船「あるぜんちな丸」の空母海鷹への改装にも携わった。 ・1943(昭和18)年頃、陸軍に応召後、1944(昭和19)年夏、所属していた独立混成第17連隊第3大隊の一等兵として硫黄島へ出征。到着時はまだ島民が在住していた時期であった。漁撈班で獲った魚を持ち帰る途上、遭遇した将校グループへの欠礼を叱責された際、取りなしてくれたのが栗林忠道中将であった。まさに、映画「硫黄島からの手紙」の冒頭シーンそのものであったらしい。 ・1945(昭和20)年2月19日、米軍上陸前の激しい空襲や艦砲射撃に恐怖し、~同年3月、戦闘後半においては、兵器不足で戦闘に至らず、実態は壕の中で3週間~食糧も水もない状態で潜んでいるだけであったとのこと。壕の奥で、半分死にかけたようなところを米兵に助け出され捕虜となり、将校を含む1,000人ほどがグァム島経由で本土やハワイに移送された。捕虜としての取り調べで、B29による空撮写真を見せられ「ここがあなたの家か?」と尋ねられたのにはびっくり仰天。初めて飲んだコカ・コーラや、市販の殺虫スプレー缶などにカルチャーショックを受けた。 ・終戦後の1947(昭和22)年、浦賀に寄港、復員したが、戦死処理されていたことを知った。 ・晩年までは戦争体験について一切口にすることはなかったが、硫黄島協会に関わるようになって以降、ほぼ毎年のように遺骨収集団に参加した。また、高松市内自宅近くの小学校で語り部として講演したり、家族から戦中のことを聞かれても、涙があふれて話すことが難しいようでもあった。 ・1985(昭和60)年、日米の旧軍人及び遺族の参加による初めての日米合同慰霊祭に参加。米国の海兵隊員と親交を深め、その後も手紙が送られてきた。 ・遺骨収集で名前等が明記された鉄兜を発見、そこから持ち主をたどり、生還していたことが判明、奈良県から高松まで持ち主が妻を伴って受け取りに来たことがあった。 ・戦時下の硫黄島は、A氏にとって「これ以上の地獄はない」と思い出すだけで泣けてしまう記憶の地ではあったが、小笠原諸島には魅了されたようで、次男の新婚旅行を父島に決め手配をしたほどである。 |